日月星辰ブログ

Vive hodie.

したいことだけするぞ、という覚悟的なもの

 割とずっと、「仕事になるか/ならないか」とか、「役に立つか/たたないか」みたいなことを半ば無意識的に考える癖があった。

 ところが、何が「役に立つ」かなんて出してみないとわからない。そんなバカな、と今でもちょっと思うが、どうもそうらしいのである。世の中は不思議だ。

 特に表現に関しては何が「ささる」のかは本当に読めない、というのが正直なところである。色々な人が、いろんな分析をしているが、彼らだってきっと、打率みたいなものはあるだろう。百発百中で当てられる「分析」があるのならそれが社会の当然にでもなっていないとおかしい。

 法則というものは、「打率」が高ければ高いほど、「常識」というものになっているのではないか——と仮説を立ててみる。ある入力Aに対して、望ましい出力Bが常に返ってくるのであれば、それはもう、決まり事か何かにしておいた方が無難である。何かの道に長けたひとだけが独占するまでもない。そもそもそんなものがあるのであれば、「なぜそうしないのか しないのはおかしい」となるのではないだろうか。打率100パーセントの入力A→出力B、はもはや数学の「定理」に近い。そこまでくると少なくとも現代社会では、「知らない人はいない」ないしは「知らない人が悪い」ぐらいになってくる。例えば人間は息を吸って吐いていなければ死ぬとか、三度三度とは言わないまでも毎日ご飯を食べるべきだとか、そういうのだってまあ「役に立つ知識」には違いないが、わざわざそんなふうにいう人はいない。

 そこから徐々に「打率」は下がっていき、たとえばマナーは定理ほどではないが人間関係を円滑にするためのノウハウとしてはわりと打率高めだろうか… とかだったり、定石、となると必ずしも勝てないけどまあ比較的確率は高いよねだとか、そんな感じ。おまじないとかになるともー、確度は限りなく低い。おまじないのばあいは、実際の確率論意外にも「みなし確率論」とでもいうべき心理的なかさ増し現象がおきている場合もある。ほんとうは役にも立たないのに、役に立つと信じたいみたいな知識も、この世にはある。

 そうなってくると。

 仕事や創作物なんかも「だれかのためになる」なんてのが百%、保証できるようなケースってそんなにないんじゃないだろうか、ということになってくる。仕事ならそんなことないんじゃないの、という人もあるかもしれないが、例えば、全くもって売れない便利グッズを作る仕事の人とかは、どうなるのだ。仕事のすべてがすべて、有意義なものであるなら、なぜこれほど転職市場が栄えている? むろん、有意義であることはわかっているがきついとか、そういうケースもあるだろうけれども。

 創作物の場合はさらにひどい。小説が誰かの「役に立つ」という場合はその役に立ち振りは甚だ心許ない。心の支えになるだとか、元気がもらえるとか、概ね精神論である。学術書や実用書ほどはっきりしない価値を、しかしながら我々は往々にして価値のはっきりしているものよりも積極的に手に入れようとする。手堅い経営理論よりもおまじないのほうが人気があることとも、ちょっと似てるのかもしれない。

 このテーマ、だんだん書いててよくわからなくなってきた。また今度、蒸し返そうと思います。

 

感想:「聖なる陰謀 アセファル資料集」ジョルジュ・バタイユ マリナ・ガレッティ編(ちくま学芸文庫)

文庫は文庫でも価格も高いし読み出があるシリーズと言えばちくま学芸文庫講談社文芸文庫、同社学術文庫、岩波文庫あたりだが、その中でもなんとなく本棚の占有面積が広いとかっこいいみたいなのがちくま学芸文庫だと思う。うわ何このめっちゃバカっぽい書き出し。

 私が学生の頃に流行っていたのはドゥルーズとか、バフチンだったような気がするが、それより以前からなんかみんな好きというか気になっていたのがニーチェユングバタイユなのではないか、と思っている。とりわけバタイユはそのアナーキーなイメージからファンが多いイメージ。ユイスマンスとかとなんとなく同じ棚に入っている感覚がある。

 フランス文学にあまり興味を示さないで40年ほど生きてきてしまったし、哲学というとそれに輪をかけて知らんかったので、本棚にこの本を見つけた時は正直いつ買ったんだよ、と思った。背面に赤い丸ぽちシールが貼ってあるので、バーゲン本か、古本であろうと思う。名前は知ってるけど読んだこともないと言う本を急に10冊程度買い込んだりすることがあるので、多分そう言う時に何某かのアンテナに引っかかって、買っておいたんだろう。リスが腐葉土にどんぐりを埋めておいて、知らんうちに芽が生えていた、みたいな話と似ている。

 積読積読なりに意味があり、いつかは手に取るもんだから、という思想は確かにどこかしらにはあり、こんまり先生のなんでも捨てちまえ教と健闘している。いやこんまり先生のおっしゃる通り、ときめきに従ってがんがん捨ててもいいものかもしれないけど、私はまだ精神が未熟だから、こういう本を平気で捨てかねない。どうせ一生わからないだろ、と思ってしまったらおしまいですよ試合。

 本書はジョルジュ・バタイユが1930年代に企てた秘密結社「アセファル」について、その構成メンバーや候補メンバー、そうでもないメンバーとやりとりした書簡集のようである。「アセファル」は雑誌も何号か発行していて、ニーチェを特集したり、神秘思想を特集したりしてたみたいだが、そうしたことは書簡のなかから推し量ることしかできず、「ほらこんな表紙のやつですよ」とか写真が載っているわけでもない。その肝心な雑誌の内容が不明のまま、書簡だけをつらつら読み進めるのは正直結構つらいものがある。ましてこちらは、バタイユについてはほとんど何も知らないのである。

 どんな本から入門しても、とりあえずそれを読み通し、必要に応じてじわじわと、ショートケーキを目の前にした一匹の小アリのようにじわじわとケーキの切れっ端をせっせと運び入れていけば、いつかはケーキもなくなるだろう、と思っている。そうしてケーキを完食したことはそれほどないし、いきなりいちご部分に投げ出されるよりもまずは遠景からケーキを眺めてみた方がいくらか作業はしやすいだろうが、今のところは無手勝流なのでいきなりいちごから行く。いや、ケーキの上に載っているアラザンあたりかもしれん。あの銀色の丸いやつ。

 バタイユのこと、もう少し知りたいな…///と思ってとりあえずウィキペディアを見てみたが、正直ぜんぜんピンと来なかった。ニーチェの研究してたのだったら、この本からも読み取れる。ただ、もともとはクリスチャンで、ニーチェに出会って無神論者になった、と書いてあったのはへーとおもった。特に初めの方はニーチェに関する記述がいっぱい出てくる。どうも「アセファル」でニーチェ特集をやったみたい。

 書簡の中では当時のヨーロッパ人だったら誰もが気になってしょうがなかったファシズムのことはもちろん、コミュニズム(つまり、マルクス)についても言及がある。あと、フレイザー。とりあえずわからないところは片っ端から調べて調べまくり、もう一回戻ってこればもう少し解像度が上がるかもしれない。やっていることはそうした思想に関する研究やら(多分)カフェでの討論、それに「秘儀」。モンジョワの砦というところの近くにある、雷に打たれて枯死した木の前で、義兄弟のちぎりみたいな血判的なやつをやっていたみたいだ。東洋人の我々からしたら「フーン」みたいな薄い反応になりそうなものだが(幕末の侍とかすぐ血判書くでしょ)、フランスの知識人のあいだではちょっと、いやかなり危ない感じがあったのかもしれない。

 資料は全部で102通。プラス1960年代になってからの補遺が四通。90通目あたりからじわじわと不穏な記述が入り始め、(資料90:「人間がその中を蠢く現実についての、まったくの幻想ではない唯一のイメージとは、人喰い神のイメージだ」、資料98:「僕が君に言った最後の言葉に対して、拒絶が帰ってくるのを待っているだけだ」、資料99:「私はあなたたちに、私に対するあらゆる絆から自分は自由である、と考えてくれるよう求める。私はただ一人でいることになるだろう」、資料102:「僕の意見では、バタイユ問題などというものはもうおしまいなのだ」)どうも決定的な決裂をむかえたもの、らしい。手紙の断片だし、ほのめかしどころか一回読むだけじゃ何を指してるかどうかもわからないようなテキストもあるため、誤読の可能性も大いにある。もう一回、初めに戻って読んでもいいし、少しでもこ資料を読み解けそうな何某かの本を数冊よんでからまた帰ってきてもいい。

 余談であるが、どうもこの「アセファル」という秘密結社に、あの画家の岡本太郎も一瞬関わっていたらしいことが、本資料に書いてあった。大阪万博とか芸術は爆発だなどで俗的に消費される岡本のもう一つの顔が、ちらりとのぞいている。確かに…芸術が爆発である、というのはバタイユ的なのかもしれない。

「銀河の深さは死を前にした歓喜

 私は渦巻き目眩を引き起こす爆発の中に、自分が運び込まれるのを思い描く(資料92)」

 

とにかく書く

 会社などでずっと、無記名の書く仕事をつづけてきた。

 紹介文だったり、レビューだったり、ニュース記事だったりといったところだ。

 コンスタントに月一でインタビュー記事を書いていたこともあるし、隔週で作品レコメンドみたいなのもあった。

 プロフェッショナルのライターほどではないけど、普通の職業の人よりはまあ量を書いているんじゃないか…? という半端なところにいて、それより上がることもなく、下がることもないという中途半端なところにいると、すっぱりやめてしまうか、もう少し野心を持ってもいいんじゃないかな…?という岐路に立っているような気がしてくる。

 岐路に立っている、というと今まさにある地点におり、立ち止まっている瞬間のような言い方だが、ずっと平行して走っている道を横目でチラチラみているというほうが漢字としては近い。ここ五年十年、そういう中途半端をやってきていて、横を並行して走っている道は、いつでもこっちにきてもいいんだぞと言っているように見える。

 もちろん、今までの道はまあ先も見えていて、線路もちゃんと敷いてある。が、隣の道はどういう険しさなのかはよく見えない。他人に聞くところによるとめちゃくちゃ厳しいよと言う声もあるし、まあなんとかかんとか、生き残る術はあるよと言う人もある。そういうのってもちろん、個々人の向き不向きみたいな要素でバイアスがかかっているんだろうなとも思うのだけれども、物の見方の違いのようにも思われる。

 例えば、時折私は歩くのってめっちゃしんどくね…? と思うことがある。何言ってるんだ、歩くのなんて大体3歳児ぐらいから70歳児まで、みんなやってることじゃないか、よほどの運動不足なのか、という人が大半だろうが、のんべんだらりと座っているよりも歩く方がしんどいのは当たり前なのである。

 成人女子なら40キロくらいから上限はトン単位までの、自分の肉を支えて立ち上がる。多少は振り子の原理に助けられつつも腰の筋肉や背の筋肉を使っておそらく5キロ程度の肉塊の支え棒を前に出す。前に出した支え棒に残り35キロ程度の荷物を乗せる。再び反対の支え棒を手繰り寄せて前に出す…

 歩行行為10分あたり、消費カロリーは24000カロリーだそうである。大人になったら10分もまとめて歩かないよという人もあるかもしれないが、それだけのエネルギーをつかっているのだ。ちょっと階段を登ったりすると息が切れてくる。日頃の運動不足とも思えない。隔日ぐらいで走ってるので、それに比べたらへのかっぱのはずが、息が若干、上がる。

 しんどい。

 座っているのを前提として歩くことを考えると「しんどい」が、これが、「走っている」が常態だった場合は、みかたが変わる。むしろ楽である。隣の線路がしんどいかどうかは、その判定をする人間が何を基準にして「しんどさ」を測るかによるのではないか、というのが言いたいことである。

 以前、プロフェッショナルの作家さんが新聞小説はだいたい800字、それを毎日書くと言っていた。高橋留美子先生は原稿一枚あたり下書き10分、ペン入れ20分とかおっしゃっていたそうだ。手塚治虫は月産何百ページと言う時期があったそうである。どちらが偉いとか言う話ではなく、プロと言ってもこと仕事量にフォーカスするだけだとこれぐらいの幅があるんだなあ……と言いたいだけである。

 しんどさばかりで仕事の質が評価されるわけでもないし、生産量はある程度の指標になるだろうがそれもあくまで一要素にすぎない。寡作で世界を変えてしまう人もいるし、とにかく大量に書くのが驚異的と言う人もいる。私は前者も後者もずいぶん偉いと思う。

 世界を変えるかどうか、は出してみないとわからないが、大量に書くというだけなら、割と誰にでもできる。根性論でなんとかなるレベルの話だ。隣の道がどういう道なのかはよくわからないけど、そこからまずやってみてもいいんじゃないかな、とかかんがえている。 

裏紙メモ、いいね

仕事のタスクを整理するのに、落書きめいた裏紙メモでいいじゃん、と思い、昨日の出社日に会社の裏紙コーナーから裏紙を2枚もらってきた。

 まだ、お試し期間なので、2枚にしておいた。

 一枚はマトリクス整理につかった。4枚に折っておき、作業内容を整理するのに使った。締め切りと作業難易度で分ける。難易度や締め切りをかき分けてみると確かに作業効率は一目にしてわかる。

 個人的には、「差し迫った作業なんてわかっとるやろ」派なので、いったいこういうやつ作るのに意味あるのか? という気持ちがないでもないが、逆に「これの待ち時間にこれしよ〜」とかは思いつきやすい。おかげで昨日はいつになく頑張ってしまって、ちょっと疲れた。

 もう一枚は、週間の予定を殴り書くのにつかってみている。短辺を細長く四等分に折って、真ん中で2等分にする。8日分の作業分が書ける。前は手帳に書いていたが、手帳のスペースだと若干、狭い。A4の紙だと割と書ける。

 今日分の作業から、このシートに従って、作業をしている。従来の作業方法だと待ち時間を言い訳に結構サボっていたが、こうしてみると残作業がわかっているので、空いた時間でなにがしかをしようとか言う殊勝な気持ちにもなる。

 これからもちょっと続けようかなとおもった。

手塚治虫はLGBTQにやさしいかどうか

リボンの騎士」は性同一性に悩む人々の存在を予見していたんだみたいな言説をたまにきく。

リボンの騎士」はご存じの通り、王女として生まれた少女が、女の心と共に男の心を持って生まれてきてしまう、という話だ。

 そもそも天国に魂として生まれる準備をしている際に、いたずらものの天使チンクが、「君はきっと男の子だ」と勝手に男の心を飲ませてしまう。後に神様が「お前は女の子じゃ」と別のハートを飲ませてしまい、二つの心を持って生まれることになった、ということになっている。

 神様はあわててチンクをしかりつけ、「間違えて飲ませた男の心を取り戻してこい」という。

 人間が、男女二つの心を持ちうる、という点を描いたところは確かに、先鋭的であったろうが、それは「間違ったこと」として処理されることになる。

 もし自分の性自認がユニークだったら、ここで首をひねるところだろう。

 エラーとして処理される、サファイア・ケース。

 サファイアは王子として振る舞いつつ、元来神が想定していた(つまり、「ガワ…肉体」は女なのだ)アイデンティティをひた隠しにして、即位式を行うまでになる。

 サファイアの人物像から、トランスジェンダーに理解のある作品だよね、とある人に言われてそうかね? と思った。

 さすがの手塚も、そこまで先進的ではない。というか、ポップの神は大衆が受け入れがたい道徳まで語る義理はないのである。

 そのころの大衆…とりわけ少女漫画の読者が望んでいたことは、せいぜいが抑圧された女性が男子と同じように剣を取り闘うことぐらいである。

 そんなもん、今考えれば女だってできる。

 トランスジェンダーの問題はもっとプライベートで、大人な部分の話だろう。

 手塚治虫はさすがにそこまで踏み込んでいない。実際、サファイアが心的「男女両性具有」であったのは、せいぜいが思春期前までのようであった。

 なので、少女の心は初恋めいたものをするが、少年の心のほうはまったくそういうのはない。一時悪魔に女の心を抜かれて、「完全に男になっちゃった」サファイアも描かれるが、浮いた話(?)はまったくなかった。どこかの姫に恋をする少年・サファイアを描くには、時代が早すぎたのかもしれない。

 思春期を過ぎ、結婚とかそういう性的な問題に踏み込む頃になると、サファイアはすでにプラスチックに男の心を譲渡してしまって、純粋な(?)女性になっている。

 だから、よその国のおてんば騎士姫に結婚を申し込まれても「無理なのよ」ということになるし、胸をこっそり見せて、「…ね?」なんていうちょっとどきどきするシーンもある。

 おてんば姫が「女だってかまやしないわ」とでも言い出すのならまだしも、彼女は怒り出す。

 作家が個人的に、どのように思っていたか、は分からない。昭和一桁生まれの作家が、果たしてそこまで柔軟な感性の持ち主だったかどうか、疑わしい。

 少なくとも「LGBTQに理解がある」とか「予見してた」までは言いすぎだろ、と思った。

 

在宅勤務

 在宅勤務もそろそろ半年になんなんとしている。

 毎月月末に次月の在宅シフトがメールで上司から送られてくる。初めの方はもう消してしまったかもしれないが、Gメールを遡ってみたら今年1月の末に送付された「来月のシフト」というメールが最古のようであった。それ以前からシフト出社をしていたことを覚えている。

 1月の初出社日に健康診断を入れてしまったために、その日の午前中に行われた初の「リモート仕事始め」には欠席となってしまい、残念だったのを覚えている。

 だって、「リモート仕事始め」とかめっちゃレアやん!

 

 初めのうちは何をすればいいのかよくわからないので、宿題フォルダをコツコツ作って、在宅勤務に備えていたが、最近は大抵のことはオンラインでなんとかできるので、ついその下準備もサボってしまっている。下準備があると何をしようかとか迷わなくていいので、大変に便利がいいのだが。また始めようかな、下準備。

 出社日に会社で、次の一週間の予定をざっくり決めておき、それに必要なファイルなり何なりをフォルダに入れておいて、USBにコピーしておく。それを在宅のPCに持ち帰り、コピーして仕事をこなす。次回出社日に成果のファイルを携えて、出社する、というサイクルである。

 USBにいちいちコピーしていると結構同期をサボったりするので、ここはGoogleドライブとかにすればもっとこう、いい感じになりそうにも思う。

 資料なども適宜持ち帰る。読み込みの必要な資料などは、持って帰った方が正直捗るので、そういうのは在宅勤務でやっておくと良い。

 そういう勤務形態で、それなりに成果をあげられるとなれば、今後も在宅でいいじゃないでしょうか、ってなるじゃないか。ぜひそうさせていただきたい。

 家のパソコンの方がハイスペックだしな。会社のパソコンを買い替えて欲しいなんて言わないからさ。在宅で今後も仕事を続けられるよう、せいぜい数万円の補助金をだしてくれれば。

 残るはセキュリティの問題だが、そういうのが気になるようなファイルはそもそも私はさほど取り扱わない。自分のクレジットカードナンバーのほうが、会社資料などより百倍大切である。それを抜かれない環境であれば、在宅にそれほど支障はなくないか?

 

 話はそれたが、今日もまた、在宅勤務だった。あまり捗らず、いくつかの仕事をこなしただけだった。もう少し作業効率を上げて、バリバリやりたい。そのためにやっぱり来週からはグーグルドライブを活用するかね…

 

 空き時間が結構できてしまって、ジョルジュ・バタイユ「アセファル資料集」の続きを読んだ。肝心の雑誌「アセファル」が掲載されているわけではないので、断片的な資料が並んでいるだけなのだけど、じわじわといろんなことが進んでいて、結構な仲良しだったはずのジャン・ロランバタイユに冷たい手紙を書いたりしていて、ふへへとなってしまっている。

 ちょっとこの本は「資料集」という側面からしても、一度資料の性格をそれぞれ、エクセルかなんかでまとめた方が読みやすいかも。

 バタイユを研究してる人がどういうふうに向き合っているのかを知りたい。週末あたりに図書館に行って、調べたいところ。