会社などでずっと、無記名の書く仕事をつづけてきた。
紹介文だったり、レビューだったり、ニュース記事だったりといったところだ。
コンスタントに月一でインタビュー記事を書いていたこともあるし、隔週で作品レコメンドみたいなのもあった。
プロフェッショナルのライターほどではないけど、普通の職業の人よりはまあ量を書いているんじゃないか…? という半端なところにいて、それより上がることもなく、下がることもないという中途半端なところにいると、すっぱりやめてしまうか、もう少し野心を持ってもいいんじゃないかな…?という岐路に立っているような気がしてくる。
岐路に立っている、というと今まさにある地点におり、立ち止まっている瞬間のような言い方だが、ずっと平行して走っている道を横目でチラチラみているというほうが漢字としては近い。ここ五年十年、そういう中途半端をやってきていて、横を並行して走っている道は、いつでもこっちにきてもいいんだぞと言っているように見える。
もちろん、今までの道はまあ先も見えていて、線路もちゃんと敷いてある。が、隣の道はどういう険しさなのかはよく見えない。他人に聞くところによるとめちゃくちゃ厳しいよと言う声もあるし、まあなんとかかんとか、生き残る術はあるよと言う人もある。そういうのってもちろん、個々人の向き不向きみたいな要素でバイアスがかかっているんだろうなとも思うのだけれども、物の見方の違いのようにも思われる。
例えば、時折私は歩くのってめっちゃしんどくね…? と思うことがある。何言ってるんだ、歩くのなんて大体3歳児ぐらいから70歳児まで、みんなやってることじゃないか、よほどの運動不足なのか、という人が大半だろうが、のんべんだらりと座っているよりも歩く方がしんどいのは当たり前なのである。
成人女子なら40キロくらいから上限はトン単位までの、自分の肉を支えて立ち上がる。多少は振り子の原理に助けられつつも腰の筋肉や背の筋肉を使っておそらく5キロ程度の肉塊の支え棒を前に出す。前に出した支え棒に残り35キロ程度の荷物を乗せる。再び反対の支え棒を手繰り寄せて前に出す…
歩行行為10分あたり、消費カロリーは24000カロリーだそうである。大人になったら10分もまとめて歩かないよという人もあるかもしれないが、それだけのエネルギーをつかっているのだ。ちょっと階段を登ったりすると息が切れてくる。日頃の運動不足とも思えない。隔日ぐらいで走ってるので、それに比べたらへのかっぱのはずが、息が若干、上がる。
しんどい。
座っているのを前提として歩くことを考えると「しんどい」が、これが、「走っている」が常態だった場合は、みかたが変わる。むしろ楽である。隣の線路がしんどいかどうかは、その判定をする人間が何を基準にして「しんどさ」を測るかによるのではないか、というのが言いたいことである。
以前、プロフェッショナルの作家さんが新聞小説はだいたい800字、それを毎日書くと言っていた。高橋留美子先生は原稿一枚あたり下書き10分、ペン入れ20分とかおっしゃっていたそうだ。手塚治虫は月産何百ページと言う時期があったそうである。どちらが偉いとか言う話ではなく、プロと言ってもこと仕事量にフォーカスするだけだとこれぐらいの幅があるんだなあ……と言いたいだけである。
しんどさばかりで仕事の質が評価されるわけでもないし、生産量はある程度の指標になるだろうがそれもあくまで一要素にすぎない。寡作で世界を変えてしまう人もいるし、とにかく大量に書くのが驚異的と言う人もいる。私は前者も後者もずいぶん偉いと思う。
世界を変えるかどうか、は出してみないとわからないが、大量に書くというだけなら、割と誰にでもできる。根性論でなんとかなるレベルの話だ。隣の道がどういう道なのかはよくわからないけど、そこからまずやってみてもいいんじゃないかな、とかかんがえている。