「リボンの騎士」は性同一性に悩む人々の存在を予見していたんだみたいな言説をたまにきく。
「リボンの騎士」はご存じの通り、王女として生まれた少女が、女の心と共に男の心を持って生まれてきてしまう、という話だ。
そもそも天国に魂として生まれる準備をしている際に、いたずらものの天使チンクが、「君はきっと男の子だ」と勝手に男の心を飲ませてしまう。後に神様が「お前は女の子じゃ」と別のハートを飲ませてしまい、二つの心を持って生まれることになった、ということになっている。
神様はあわててチンクをしかりつけ、「間違えて飲ませた男の心を取り戻してこい」という。
人間が、男女二つの心を持ちうる、という点を描いたところは確かに、先鋭的であったろうが、それは「間違ったこと」として処理されることになる。
もし自分の性自認がユニークだったら、ここで首をひねるところだろう。
エラーとして処理される、サファイア・ケース。
サファイアは王子として振る舞いつつ、元来神が想定していた(つまり、「ガワ…肉体」は女なのだ)アイデンティティをひた隠しにして、即位式を行うまでになる。
サファイアの人物像から、トランスジェンダーに理解のある作品だよね、とある人に言われてそうかね? と思った。
さすがの手塚も、そこまで先進的ではない。というか、ポップの神は大衆が受け入れがたい道徳まで語る義理はないのである。
そのころの大衆…とりわけ少女漫画の読者が望んでいたことは、せいぜいが抑圧された女性が男子と同じように剣を取り闘うことぐらいである。
そんなもん、今考えれば女だってできる。
トランスジェンダーの問題はもっとプライベートで、大人な部分の話だろう。
手塚治虫はさすがにそこまで踏み込んでいない。実際、サファイアが心的「男女両性具有」であったのは、せいぜいが思春期前までのようであった。
なので、少女の心は初恋めいたものをするが、少年の心のほうはまったくそういうのはない。一時悪魔に女の心を抜かれて、「完全に男になっちゃった」サファイアも描かれるが、浮いた話(?)はまったくなかった。どこかの姫に恋をする少年・サファイアを描くには、時代が早すぎたのかもしれない。
思春期を過ぎ、結婚とかそういう性的な問題に踏み込む頃になると、サファイアはすでにプラスチックに男の心を譲渡してしまって、純粋な(?)女性になっている。
だから、よその国のおてんば騎士姫に結婚を申し込まれても「無理なのよ」ということになるし、胸をこっそり見せて、「…ね?」なんていうちょっとどきどきするシーンもある。
おてんば姫が「女だってかまやしないわ」とでも言い出すのならまだしも、彼女は怒り出す。
作家が個人的に、どのように思っていたか、は分からない。昭和一桁生まれの作家が、果たしてそこまで柔軟な感性の持ち主だったかどうか、疑わしい。
少なくとも「LGBTQに理解がある」とか「予見してた」までは言いすぎだろ、と思った。