日月星辰ブログ

Vive hodie.

メモ ゴールデンカムイについて

ゴールデンカムイの主軸を担う人々の社会的属性について考えていた。

まずは、アイヌアシリパさんをはじめとした、おそらく本作で一番「キャッチー」な属性の人々である。主に政治的な要因で、2020年近辺に動きがあったのも、皮肉なことに追い風となった。なぜ「皮肉なことに」と言いたくなるのかはのちに書く。

 

つぎに、武士である。なぜ、土方歳三という人物が本作に意図的に描き込まれているのかを考える時に「武士」という属性は外せない。本来であれば永倉新八のように隠棲しているか、函館か上野かで死ぬか、——政治の中枢にのさばるか、という、作品内の時代設定であってもすでに過去の遺物である。

 

それから、軍人だ。鶴見中尉をはじめとした、軍内でのごたごたもまた、本作の重要なキーになる。

 

最後に、囚人である。網走監獄に収監されている囚人二十四人の人生は、本作の通奏低音と言っても良い。主旋律ではない気がする。

 

彼らは囚人を除いて——現代の日本社会で透明化された、あるいは滅ぼされた人々である。

 

囚人というのはどんな時代でも絶対に消えて無くならない。人類史から絶対に消えて無くならないのは「娼婦だ」と荒木飛呂彦先生がどこかで書いていたが(ジョジョのコミックスの折り返しだったっけか)、囚人もそうだ。しかし囚人というのは本来の社会的属性からドロップアウトした人々とも言えるので、純粋武士や純粋軍人のような「純粋囚人」なんて人はいない。いないはずである。

 

アイヌについてはずっと断続的に迫害・無視とともに復興・注目があった。それが珍しもの見たさであっても、また北海道外に出てしまうと多くの日本人にとっては日常から消え去ってしまうものとしても、同化に対する抵抗が続いていた。現代的な倫理観で言えば積極的な滅ぼされる言われもない、というのも、彼らが生き残れた理由としては大きい。倫理的に言えば他者を殺してはならないのと同様、他の文化を滅ぼして良い言われなどない。あるはずもない。

 

 武士と軍人は少し、勝手が違う。

 武士は幕末には形骸化していたとはいえ、常に武器を腰に吊り下げた支配階級である。かつてはどこの国にも似たようなモノがいたはずが、およそ近代民主主義に合わずに抹殺されていった。いわゆる「武家」は今でも脈々と残っているだろうが、彼らがいわゆる「武士」かと言われると違う気がする。

 明治維新とともに事実上滅び、その後もしばらくは多少の抵抗があったものの戦後にはほぼいなくなった。

 

 軍人もまた、昔の日本には確かにいたが、いまはどこを探してもいないタイプの人々であろう。自衛隊員が軍人か、というと似て非なるモノのような気がする。ひとまずは法律上は自衛隊員を軍人といってはまずい。日本は軍隊を持っていないことになっている。

 軍人の滅亡のタイミングは第二次世界大戦の敗戦だろう。ポツダム宣言の受諾とともに、彼らは滅びた。

 

 今の日本の多くの人間にとって、その存在が「ぴんとこない」人々、透明化されたかあるいは滅びていった人々が、自らを利するために熾烈に争う漫画が、ゴールデンカムイなのだ。

 なんとなく、「ドン・キホーテ」に似ている。中世騎士ロマンスが古びてしまった頃にセルバンテスが描いた、中世騎士ロマンスのパロディ。まだ作中時代設定が明治時代なので完全なる笑い話にはなっていないが、どんなにハードな展開になっても作者がギャグを入れたがるのは、ひょっとするとあの作品が「ドン・キホーテ」だから、なのかもしれない、と思った。

ドン・キホーテ」も出版当初は「滑稽本」として超大人気だったそうである。それが200年以上の時を経て、バフチンによって「カーニバル文学の大傑作」になってしまった。

 時間ができたらトックリと細部を詰めたい。

 

 

 

断片

ジョルジュ・バタイユについて何も知らないので、とりあえず本を一冊読むことにした。

が、よりによって初めの一冊が「聖なる陰謀 アセファル資料集」なので、断片的にメモを残しながら読み進めつつ、じわじわと「バタイユ入門」とかそういうやつに手を伸ばしていこうと思っている。

 

 人に見せるためのブログというよりも、日々のメモ書き。当然誤読も、わかんないところのメモだけにもなる。

 

「アセファル」… 無頭の人の意で、バタイユが企てた秘密結社。フランス。

 モンジョワの古城と、雷に打たれた木、森。

 

 森を彷徨って「出会う」という儀式が行われた。

 バタイユはのちに、この秘密結社の件は俗にいう「黒歴史」認定をしている。

 頭のない人間というのは、衆愚のことともとれる。

 反ファシズム、反民主主義。

 ニーチェフレイザー金枝篇」、カイヨワ、アンドレ・ブルトン

 バタイユは新しい宗教を確立しようとしていたらしい。

 「コントル・アタック」って何?

 

 時代は一九三七年〜九年。ナチズムとスペイン・ファシスト政権の台頭が背景にある。

 暗い時代だ。フランスとて例外ではない。ナチズム方向からも読解を進めないと全体像は見え無さそう。

 登る崖の高さに「キングダム」の李信将軍のように呆然としてしまう。

シュハスカリア・キボン(4月7日のできごと)

ブラジルのシュラスコというものを初めて知ったのは、昔、同人活動で知り合った人と中国旅行に行った時のことだ。ホテルの1階がレストランになってたのだが、そこが何故かブラジル形式であった。

お友達はポルトガル語を話すので、そこの店長さんと話していた。ブラジルから中国にやってきて、シュラスコを提供する店をやっているという。どこまでの話をその時聞いていてどこまで通訳してもらったかは覚えていない。とにかく世界は広いなと思った。

そのあと、清野とおるさんの漫画などでぼちぼち都内にもシュハスカリアがあるらしいことをなんとなく知っていたが、だからといって赤羽に飛ぼう、とは思わずに10年ほど。「飯ツウ」ブログさんで見た記事で思い出して、あの肉のパレードみたいなやつまた食べたいなと思って、昨日行ってきた。

 

 この10年、覚えてるのかいないのかみたいなテンションで付き合ってきたシュハスカリア。なんとなく憧れつつ、実際に付き合ったことはないムキムキ男子みたいな距離感と言ったら適当だろうか。そもそも長らく、「シュラスコ、何それ楽しそう」と言ってくれる友達と疎遠にしていたことも大きい。クマ鍋だろうがなんだろうが付き合ってくれるお友達とも、最近は遊んでない。

 たまたま今回は、肉が大好き、健啖家の友人と約束ができた。

 

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初めに言っておくと、わたしは1日前から少しばかりカロリー摂取制限をして挑んでいる。当日の朝と昼も、若干のカロリー不足で、お腹が減って減って仕方がない状態で挑んだ。そのせいか初めのうちはマジでウキウキ。飽和脂肪酸何するものぞくらいのテンションで食いまくった。

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「揚げ物は控えとこうかな」というお友達の英断を参考にすれば良いのに、うまいうまいとフライドポテトとフライドオニオンも結構食べた。

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牛ランプ。血が滴るような良い焼き具合。

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羊肉と卵型に整形したなんか美味しいの。写真が映えないのは来たらすぐ食べてるからだ。お皿が常に汚い。

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サラダの盛り合わせも二人分なら例えばトマトは二つずつ、など気遣いがすごい。ベビーコーンも二つずつ、オリーブも偶数個。

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自家製のポンデケージョもあつあつで、中のチーズがとろけている。かくあるべきポンよ、と言う感じがした。

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たべすぎてうえってなってたのにプリンまで食べてしまった。あすけんダイエットの登録が恐ろしい…

 

 

読書日記:「サンクト・ペテルブルグ」(小町文雄/中公新書)ロシア皇帝暗殺事件があったあの街はどんな街だったのか

ゴールデンカムイにはまってから、アイヌ文化関連に興味が出た、という人は多いだろう。私も御多分に洩れずその口で、北海道には何回か行ったし、その度にアイヌ関連の展示がある博物館に行ったりした。本州でもアイヌ関連の展示がある場合は、足を運ぶようにしている。

 本も関連書籍をぼちぼちと読んでいて、「アイヌ神謡集」や「アイヌ民譚集」のようなエポックメイキングな名著は読んでいる。萱野茂は文章もたくみで(きっと弁もたつ「いい男」だったに違いない)、ウウェペケレを集めた本などはとても読みやすいし解説も面白い。

 ハマりたての頃は白石が好きだったこともあり、まず網走監獄絡みの本を漁っていた。「破獄」はもちろん読んだし、他にも山田風太郎「明治十手架」(犬童四郎助のモデルになった、有馬四郎助を主人公にした物語で、彼が監獄で巡り合った一癖も二癖もある囚人たちが悶着を起こしては有馬を困らせるという面白い話である)「地の果ての獄」(こっちは網走監獄を舞台に、五寸釘の寅吉とその相棒らしい幽霊小僧ってのが出てくる。アイヌのいい男も出てくるし有馬も出てくるのだけれど、どうもラストがしゃんとしなかった気がして、ストーリーの記憶があいまいになっている)も読んだ。

 キロランケが、ロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺事件の実行犯であった、ということがストーリーで明かされたのはずいぶん前だ。多分二年ぐらい前だったと思う。その時は「フーン」くらいの気持ちだった。よくよく考えたらこの事件の詳細をまったく知らない。ロシア革命の前触れ的な事件だったよね、というような、高校世界史(二年ぐらい)の知識で止まっている。そもそも、十月革命とはどれぐらい時期が離れてるんだっけ? 場所はモスクワだっけどこだっけ? 殺されたのはアレクサンドルだっけニコライだっけ、ぐらいの。

 爆殺事件があったのはサンクト・ペテルブルグ、現在は「血の救世主」教会というのが立っている。殺されたのはアレクサンドル二世。先進的な皇帝で、農奴解放令の人。ちなみにニコライ二世はラストエンペラーで、ボリシェビキにひどい扱いを受けた後に惨殺された。彼の末っ子がかの皇女アナスタシア、ということになる。一家惨殺の手を免れて生き延び、どこかで生きていた、という伝説があるあの皇女だ。

 ロシア史の知識はこんな感じであなぽこだらけで、そもそも「ロシア帝国時代のロシア」についてもさほど興味も関心もなかった。個体認識していたのも女帝・エカテリーナ二世ぐらいじゃない? 

 サンクト・ペテルブルグはロシア帝国の始祖・ピョートル大帝が築いた都である。江戸やなんかと同じように、土地として意味はあるものの、もともと街のなかったところに(少し集落ぐらいはあったようだが)皇帝権限で強引に街をおったてた、という由来らしい。

ただ美しいだけではない。不思議な街である。光と陰の両方に満ちたこの街は、幻想都市とも、劇場都市とも、神話都市とも呼ばれる。(中略)

 そもそもロシアの伝統から切り離された、「我が家」ではない人工の町。ヨーロッパ風とは言っても、イタリアでもドイツでもフランスでもない、国籍不明の町。それでいて、まぎれもなくロシア文化の多くを体現している町。 

 

  そう、著者は書いている。「呪われ、嫌われた町」であり「愛された町」であり、「幻想的な町」なのだ。どことなくフィクショナルな、わざとらしい不自然さがあるものらしい。

ペテルブルクは、全体が図面上に描かれた都市計画に沿って作られた人工都市である。

 ともいう。

 なんとなく、ファンタジー小説なんかで出てくる高度に発展してはいるが「世界観」ベースで作り込まれた街並みの感じを想像してしまう。しかし、札幌や小樽だって計画都市といってしまえばそうじゃないのかな? 世界に冠たる、帝国時代は紛れもなく「首都」だったこの町が、そういう姿をとっていることが珍しい、という話なのか。

 東京はどうなるんだ。江戸だって、家康がここいいね、ってみっけて開発した町じゃなかったのだろうか。

 ひとつ、いえることがあるとすれば、サンクト・ペテルブルグの建設には、いささか強引なところがあったらしい。ピョートルはスウェーデンを牽制するために都市の建設を急ぐ必要があったらしい。それで、突貫工事的に建てられた町が砂上の楼閣めいた幻影性をもつ、ということなのかもしれない。

 ドストエフスキーの諸小説の舞台も、ほとんどがこの「ピーテル」ことサンクト・ペテルブルグである、というのも悔しいが初めて知った。いや、「白痴」「未成年」「悪霊」は読んでいるのに気づかなかったのか、という感じだが、特に意識はしなかった。「罪と罰」なんて聖地巡りができるそうじゃんね。そういう視点でもう一度、読み直してみなくてはならない。ドストエフスキーの筆でこそ、この街の幻想性がよくわかるよ、ということなので。どうもさー、ヒロインの家に飛び込んだらお茶沸かして飲んでたとか、お昼のチキンを食べるとか食べないとか、そういう瑣末なところしか覚えてない。興味ない状態で本を読むとしばしばこういうことがおこるから、なんとなくタイトルと著名度だけで本を読むのはこれからやめようと思う。興味がわかないうちは、どうせわかりゃしないのだ。

 

 さて、「ゴールデンカムイ」にもどる。若き日のキロランケ(当時の名前ではユルバルスタタール語で『虎』))はまるでラスコーリニコフみたいに、この街をうろうろうろついていた、ということになる。しかも十五歳。田舎から(彼の述懐によればアムール川流域にあった自分の村?から一人で飛び出してきたらしい。両親とはどういう別れだったのか? いくつの時に村を出たのか? そもそも村だったのか街だったのか、家が「タタール」だということ以外はわかっていない)ラスコーリニコフはいくつの設定だったのだろう。それほど変わらない年頃だったのだろうと思う。

 その、キロランケ=ユルバルスが住んでいたころのサンクト・ペテルブルグの面影は、案外現在も残っているみたいである。19世紀末、1880年代ぐらい、と仮定して、そのあたりのことが書いてあるところは特に注意深く読んだ。

妙に重々しいもの、列柱を配したもの、彫刻を施したもの、装飾の派手なもの、しゃれたバルコニーのあるもの。ピーテルの町の重厚さ、華やかさを示すこれらの建物は、たいてい折衷様式である。なにしろ一九世紀最後の二〇年には、石造建築物が毎年平均二八〇棟新築され、三〇〇の増築(階を高くする)があったのだ。建築ラッシュのピークの年一八九七年には、一年間で約五〇〇棟新築されたという。

  当時はピーテルの人口が急激に増え、アパートというかマンションというか、とにかく人が住む目的で建てられたビルがじゃかじゃか立っていた。「毎年平均280棟」というのはすごい。増築工事も合わせると500件ほどになる。そこここで足場が組まれ、人足がその上を行き交い、槌の音が響き渡っていた、という感じか。

 一九世紀初頭に二〇万だったペテルブルクの人口は、一八五〇年代には約五〇万、一八八〇年代には一〇〇万と急増し、町の様相はすっかり変わった。町中に中・下層、貧困階級の住民があふれ、安アパートが立ちならび、彼らがうごめく市場や屋台や酒場が喧騒をきわめ、常に新築・改築の砂ぼこりが舞っていた。

  キロランケは安アパートの一角に燻りつつ、お腹が減ったらセンナーヤ市場あたりに出て、食材を買ったり、屋台でピロシキを摘んだりして暮らしていた。ある日、カッフェか酒場かで燻っていると、革命組織「人民の意志」の党員に誘われ…という感じだったのだろうか。

 皇帝暗殺は1881年だから、キロランケは設立まもない(1879年)同党に入ったということになる。

 いったい彼はなんのために首都に登ってきたのか。彼の家が知識階級の場合は初めから革命を目的としている場合もあるだろうが、まあ普通のおうちだった場合は、もしかしたら、この建築ラッシュに伴う工員募集にでも応じたのかもしれない。どっちにしても、仕事はあまり楽しくなかったんじゃないか、と思われる。そうでなければ革命にうつつは抜かさない。

 工員として働いていたのであれば、あまりよい扱いを受けなかったとか。たった十五歳の少年が、皇帝を暗殺するために爆弾を仕込んだかばんを持って、運河のほとりを「青ざめた馬」の主人公よろしくうろつくのであれば、それなりの理由があったに違いない。それなりの。

ペテルブルクは大いなる対立と矛盾と幻想の町なのだ。ときには虚構の町と言われることさえある。

 つい、フィクションの人物を妄想で彷徨かせてしまったが、そんなサンクト・ペテルブルグだからこそ、ソフィアやウイルク、ユルバルスが息を潜めていた、という妄想もまた、できるのかもしれない。改めて、野田サトル先生の事件や場所のチョイスにしびあこである。

いまさらあすけんにはまりました

すでに大人気アプリではあるものの、特に必要を認めていなかったために導入していなかったあすけんにいまさらはまった。

もともと三食の写真を撮るのは好きで、無闇に毎日撮ってはいたが、そこに何食べたかがわかり、栄養素がわかり、評価がつくとなると俄然面白くなる。

まいにち高得点を目指した食事を心がけている。

 

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読書日記:土屋隆夫「判事よ自らを裁け」社会派と見せかけて男女のドロドロした情念がエッチな緻密ミステリー

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 時折、家になんで買ったのか分からない本があることがある。
 この本もまた、そういう経緯で出現したもののような気がする。

 大学時代、推理小説同好会のようなところ(のようなところ、などと迂遠なことを言わずとも、まあそうだった。ただ、「推理小説同好会」とは名乗っていなかったが)にいたせいで、「土屋隆夫も読んでいないのか」とは言われたことがあるかもしれない。ないかもしれん。

 古本屋で名前を見つけて、「一冊ぐらい買ってみようかな」と思うぐらいには、土屋隆夫という著者の名に思うところはあった、のだと思う。

 角川文庫版、昭和51年1月10日発行、とあった。間違いなく古本屋購入だ。裏表紙に「古書 羊頭書房」というシールもある。調べてみると神田神保町古書店だ。神保町の古本ガレージあたりで買ったものだと見当がつく。定価340円。
 この本の「1975年10月 角川文庫目録」という巻末ページを見てみると、21行3段が3ページにわたってリストアップされていて、時代を感じる。今よりずっと、活字文化が華やかなりし時代だったのだ、と思わせる。高木惟光や山田風太郎吉村昭といった錚々たるメンバーがどしどし既刊を並べている。なお、新刊案内の所にいぬいとみこの「北極のムーシカミーシカ」が並んでいる。だいたいそれくらいの時代だ。

 3年ぐらい前に神保町をふらふらし、1冊100円ぐらいでワゴン投げ売りされていた古本から、10冊ばかりを購入したことがある。その時に一緒に買ったのかな、というぐらいの記憶しかない。普段あまり手に取らない本をわざと買ってみよう、と思い立って、ビル・プロンジーニの何冊かとか、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」みたいなものと一緒に、買ったんだと思う。

 前置きが長くなった。

 本書は短編集で、表題作の他に5作品が入っている。どれも、発行当時の昭和30年ぐらいの雰囲気を色濃く描き出している。解説によると昭和三十六年に上梓され、土屋隆夫の代表作となった「危険な童話」以降の作品群らしい。携帯電話はおろか、パソコンもコピーもない時代(「地図にない道」で新聞の縮刷版を見るシーンがあるが、いまなら当然コピーを取るようなシーンが出てきてはっとしてしまった)。ちょっと前にツイッターで、「サザエさん」の波平さんの仕事机に電話しかない、というのがバズっていたが、まさにそういう時代である。電話とハンコ、紙束、せいぜいが電卓…下手をするとそろばん。
 
「判事よ自らを裁け」「奇妙な再会」はいずれも裁判官の判決への責任意識のようなものをテーマにした作品である。裁かれる方は一生を左右する「判決」だが、裁判官にとっては膨大な日々の仕事の一つに過ぎない。そこには王と民草のアンバランスのような、「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐のあのセリフ「人がゴミのようだ!」にも通じる「何か」がある。

「判事よ自らを裁け」には、人が人を裁くがゆえの公正性の限界について、以下のように書いている。

 

 被告のちょっとした言葉づかい、なにげない素振りが、判事の心に投影する。それはやがて、心理の褶曲の中に複雑な陰影となって、是非の判断を歪めることはないか。

 

 「人が人を裁くことのいびつさ」。

 近代国家はどこ一つ、このジレンマを逃れられない。逆に呪術かなんかで決めようなんて言い始めたら大騒ぎだ。いま、われわれは法曹のプロフェッショナルによる裁判がもっとも公正な裁きだと思いこんでいるが、本当にそうなのか? というのがテーマになっている。

 この2作に登場する平凡な判事たちは、冤罪を着せてしまったかもしれない元被告人の縁者と、それぞれにユニークな対峙をする。権威主義と保身にまみれた彼等二人の反応な……。

 彼らが権威主義に傾くのも、保身に走るのも、その職務の責任が重すぎるのかもしれない。「奇妙な再会」の大賀判事は、そのキャリアを背景に政界出馬を狙ってるわけだから、同情の余地はない。

 権力を追い求める時に、人はしばしば、その責任について考えるのをやめてしまう。そういう話なのかもしれない。

 2作目までの裁く側と裁かれる側のやりきれない意識の差異、それの告発、という風合いの強かった作品から、「孤独な殺人者」「ねじれた部屋」「地図にない道」はまたそれぞれ別のテーマである。

 テーマとしてはけっこうシリアスかつハードなのに、どの作品もなぜか男女の濡れ場ががっつり書かれているのが正直印象的だった。無駄のない巧みなプロットや文体と、えっちな「サービスシーン」が齟齬なく同居している。

 えっち描写についてはわりかし(今見ると)ベタで、よく言えば、昭和的でしっとりしている。湿度が高い。

 

 「アラ、駄目よ、洋服をお脱ぎになって」

 (中略)

 高枝は帯をとった。汗で襦袢がベトついている。全裸になって、乾いたタオルで身体をふいた。

 男の横へ、裸の身体をすりよせると、彼女は、男の手をとって、自分の乳房の上に置いた。

(「判事よ自らを裁け」)

 このシーン、高枝(たまたま事件に関係した街娼である)の手紙の中の記述のはずだが、とちゅうから急に地の文になって、現在形でなまなましく語り出される。まだ、東京に和装の街娼がいた時代なのだ。それはともかく、湿った襦袢の描写が生々しい。そこまで書く必要は特にない。多分。

(もっとえっちなシーンもあるけど、それはまあ、この際割愛する)

 もうひとつ。 

 「いや」

 しなやかな体が胸の中にころげこんだ。彼は、その頬の上に顔を伏せた。

 「駄目よ。後悔するわ、パパさん」

 その言葉が一層彼の炎をかきたてた。

 (「孤独な殺人者」)  

 この話は「密やかな情交」なしでは成り立たない話なのだ。だから仕方ないよね。若いホステスによって籠絡されていく主人公。パパ活、などとカジュアルにしたくない淫靡で妖しいシーンだ。

 他にもいろいろあるが、きりがないので割愛する。男女の情念は決定的な犯罪の動機に結びつきやすい。男女に限らず、男同士だって、女同士だって。身体と心が深く絡んだ人間同士は、決定的に恐ろしいところに落ち込む可能性が高い。 

 

 まあ、そんなわけで濡場も巧みでえろいよ、というところだが、一方で土屋の文体は無駄を省いた歯切れの良いところも、特徴だと思う。

たとえばここのシーンとか、すごい。

 足もとの異様な感触に、学生が「ワッ」と声を上げ、尿意を忘れて走り出した瞬間から、事件は捜査課の手に移った。

(「判事よ自らを裁け」)


 鮮やかすぎる省略である。走り出したら交番に駆け込んで調所を取られたりなんだりするはずなのだが、そういうのはいいから、と言わんばかりだ。「 尿意を忘れて」というところにユーモアも含めつつ、巻きに巻いている。

 

 「街をあるく女の服装が、白く変わった。」という表現も個人的に唸った。簡潔かつ、効果的な描写だ。
 昔は暖かく、眩しくなると女の服は白く変わるものだったらしい。このフレーズにはほんの少し性的なイメージすらある。やっぱり土屋隆夫はえっちだ。

 落ちぶれた華族の娘がが成金実業家に嫁いで夫を殺そうとする話とか、遅咲きに結婚した妻が突然失踪した夫の行き先を調べる話とか、男と女の、濃密な人間関係から発生する裏切り、すれ違い、恨みつらみ…

 それは昭和のみならず、一皮めくれば令和の時代にも脈々と生きている、人類が永久に解決できない罪業の一つに違いない。

暖かくなってきたのでむしを放しました

 ちょっと前の話になってしまうが、暖かくなってきたので、3月23日に近所の公園に虫を放して来た。どこか鈍臭くて捕まえやすいし、心配で仕方なかったが、先週の「ダーウィンが来た」によれば鳥や肉食虫も食わない苦味があるらしい。警戒色も伊達じゃないんだな。

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 お別れのようすをビデオにも撮った。

 元気に暮らしていって欲しい。