日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書感想:下村敦史「サハラの薔薇」

 サハラ砂漠といえばイメージとして「荒涼たる乾燥地帯、砂の大地」であろう。それと「薔薇」という瑞々しい植物のイメージのアンビバレンツが、このタイトルの洒落たところなのだろうが、私はすでに「ローズ・ド・サハラ」という石のことを知っていたので、わりと直裁に、「ああ、あのちゃいろいやつか」と思った。鉱石というのはことさらに知りたいと思ってあれこれ調べなくても罠のように街中に「教えてしんぜよう」と手ぐすねをひいている店が点在していることは、ちょっと観光地をぶらついてお土産を物色した人ならピンとくるはずだ。サハラの薔薇はそのテの石の店で割と簡単に仕入れられる知識の一つである。

 スピリチュアルといい、パワーストーンという愚について、今ここでその手の御呪いに是非を問うのは置いておくとして、多少は下村先生もそのような「うさんくさげ」な匂いを持たせたいと思っていたのでは、と思わんでもない。

 なぜなら、この小説が大いに俗悪でうさんくさいテイストをも魅力として持っているからである。ローズ・ド・サハラの示唆に気付いても気づかなくても、このタイトルでどうぞ読んでください、というような挑戦的姿勢を感じる。もとより「サハラの薔薇」だなんて、いかにもなんていうか、007ぽいじゃん。

 なので、この作品は「冒険小説」だの、「スパイもの」だの、あるいは「ドンぱちアクション」だのが大好きな人にこそ、おすすめしておきたい。難しい心理描写や謎解きはないので大丈夫。「薔薇」を背負って登場する貴公子はおらず、どちらかといえばバーで「薔薇って書ける? 俺かけるぜ」と言ってくる男のほうに近い。それはいくらなんでも貶しすぎか。

 以下ネタバレ。(貶すつもりは初めはあまりなかったのに、貶してしまいました。すみません)謝ればいいってもんでもないが。

 

 

なんのことはない「サハラの薔薇」はそのものズバリ、あの石のことであっている。中盤ぐらいでちゃんと答え合わせが出てた。もともとは謎解きっぽく書かれた登場人物の手帳のメモの文句(だったかな)である。永井さんという、元福島原発付きの技術者の持ち物である。

 そう。これは「東日本後」の小説なのである。ちょっと手に取るのが遅すぎたかなと思って奥付をみたら「令和元年初版」とあった。5年ほど出遅れたので、そのあたりはまあ、そうなんだねーと思っておく。単行本出版は2017年12月発行と書いてあった。震災後7年足らず経てば、あの震災もこういうふうに消化できるようになるのかと思った。

 すごく乱暴にあらすじを括ってしまうと、カイロ発パリ行きの飛行機がサハラ砂漠のど真ん中で墜落する。どうやらパイロットの中に怪しいものがいて、海にいるはずの飛行機は砂漠のど真ん中に落ちている。カイロからパリに飛ぶならわりにすぐに地中海に出るはずなのだが、西にずれればすぐにサハラ砂漠だ。幸い、幾人かの生存者がいる。そのなかの「有志」が、人里まで歩いて救助を呼ぶことにする。

 日本人が「砂漠」と聞くと茫漠な果てもなければ目印もない砂場を想像するが、その効果を最大限生かした小説である。実際多分、この21世紀のご時世に、地球上で人がいない場所の代表格みたいな感じもする。海か、樹海か、砂漠にでもならないと、「落ちた飛行機が数日見つからない」というシチュエーションにはならないのかもしれない。

 墜落地点は誰にもわからない。わずかに「窓から外を見ていたよ」という男がいたが、早々に死んでしまう。こうして「精神的陸の孤島」を周到に作り上げ、さてサバイバルをはじめよう、となる。前半は概ね、街か人影を求めて彷徨う人間たちが疑心暗鬼で互いに殺し合ったりするパートで、中盤でなんとか「助力者」が見つかると今度は「明らかな和を乱す敵」対「味方のおれら」の話、終盤ではいよいよ、「前半からぽつぽつ置いておいた謎を拾い集めて縫いとじる結末」という構成で、長さや配置もほぼ同様な感じで進んでいて、筋の絡まりやどこにむかっているのだろうという不安はない。直感的に触ってわかる小説。時折、「あ このあたりでみのもんたが、『どうする、峰!』って言ってるや」と思うところが出てくる。悪いけど。私の感性の問題だから許してほしい。

 水を分け与えるべきか見捨てるべきか。

 峰は葛藤し続けた。

(P115)

とか、

 

「俺は——」

 何と答える? エリックを助けるのか。それが自分達の寿命を1日縮めると承知で水を分け与えるのか。

 

とか。(エリックがらみのシーンばっかになっちゃった)

 

 中盤からはもっぱら敵:アフマドとの心理戦だが、ここでもうーんとなってしまう。アフマドが「なぜ盗賊に落ちたのか」はまあ書かれているのだが、だからといってアフマドが「テイの良い悪役像」であることをちっとも挽回していない。それはシャリファの人物像もそう。セクシーな踊り子、実は殺し屋ってね。しかも後半はせっくすぱーとなーである。

 そういう類のエンタメが必要な人はこの世にたくさんいるし、そういう人のための作品かもしれないが、「ワタシニハアワナカッタデスネー」ですますにはおいおいすぎるんだよね、このあたり。峰の人物造形も好きになれない。

 でも、ここでタイトルの「サハラの薔薇」に立ち戻る。もともと、エジプト考古学にはなにかとスキャンダルが多いらしい。

www.esquire.com

本作で峰が手を染めていた「盗品売買」のこちらは「買う」ほうである。ざっとWEB検索してすぐ出てきたのがこのフランス人のスキャンダルだった。ちょうど良すぎる。ちょっと調べるときっと似たような話がたくさん出てくるのだろう。「サハラの薔薇」というタイトルのそこはかとない胡散臭さと、この峰の人物造形はぴったりである。ブラジルだの、アフリカだのから安めの石を買い付けてきて観光地で民衆に売りつけるスピリチュアルビジネスの胡散臭さと、どこか通じるものがあって面白い。若干言いがかりの謗りを免れなさそうな感想だが、思ったので書いておく。

 最後の「巨大な謎」も国家陰謀論なのかなんなのかわかんないうちにうやむやにされた感がある。最初の方で飛行機の航路を変えたり、謎の日本人が殺しに来たりの謎も、納得するまで十分に説明されたとは思えなかった。フランスの汚点を暴くのはまあふうんとして、そのやりかたはほんとに大丈夫だったのか、永井よ… 回りくどくない? 「これしかなかったんだ」とズブのシロートが納得するには少し不完全燃焼感が強かった。