日月星辰ブログ

Vive hodie.

酒井健「バタイユ入門」

1996年発行の本。今はまたさらに研究進んでるんでしょうかバタイユ

 

三島由紀夫が推し作家・思想家として紹介しているせいか、日本での知名度がわりとそこそこ(だとおもっている)、バタイユ。フランス本土では今ひとつ、というのがこの著者の認識らしい。脱西欧・西欧の理性主義を否定するスタンスが、フランス人のお口に合わないからではないか——と、酒井は言っている。

 といって、日本での需要のされ方にも批判的である。ネットジャーゴンでいえば「もにょる」といったところ。

 

 問われるべきなのは、もっと根本的なレヴェルにある三島の西欧主義なのである。バタイユをはじめ自分が積極的に摂取した西欧人のものの見方はそのまま日本の社会に適用されうる、そう三島が無批判に信じていたことが問題なのだ。西欧における聖俗の対立は、日本の晴れと褻の対立とは緊張度を異にする。罪の考え方も異なるし、エロチシズムにいたっては西欧人が捉えているようなエロチシズムは日本にはないといっても過言ではない。(中略)

 三島が行った無批判の西欧受容は、一人三島だけの問題ではなく、明治以来今日まで続く日本の知識人の共通の病だといってよい。

  そういう話で思い出したのが、先日ネットを賑わせた、オリンピックで来日していたフランス人のサッカー選手が日本人スタッフに暴言を吐いたという話だ。おフランスかぶれの日本人が選手を擁護し、それに対して「あれはやっぱり差別だ」と反論した言語学者がいた。私はこれに「どちらが正しいか」で参加などしようとも思わないしできないのだけれど、同じ人間だと思ったら思いの外断絶は深い、というのが本当のところなのかもしれない、と別の意味で暗澹となった。

 バタイユのクソ悩んだお悩みに踏み入る前に、マリアナ海溝が横たわっている。

 少しは手がかりというかアリアドネの糸らしきものがあるとすれば、先日「金枝篇」読んでおいてよかったなあぐらいのところか。バタイユの「聖性」へのアプローチの道標になりそうな事例がいくつも載っているし、バタイユもこれを踏まえているのだろうな、と思うところがいくつもあった。正直なところ、西欧の哲学書はいくら専門家が「優れた・信頼に足る・翻訳」と言っていても読んでわかった試しがないのは、この断絶のせいか。

 しかし、キャンベルの神話論は割とスッと心に入ってきて、——翻訳の精緻さについてはなんとも言いようがないが、それまたなんでなんだろう、と思っている。ものすごい勢いで我々は知らないうちにアメリカナイズされてしまったのか? 私はそんなもの、幻想だと思うんだけどな。日本人はどこまで行っても多分日本人である。表層の文化がある程度破壊されても、多分。精神性を合理的に変えられると思い込んだ200年が明治以降の歴史だとしたら、そんな甘いもんでもないだろ、と思うわけである。根拠はないけど。多少の影響を受けた変化はあるだろうけど、根本がそう簡単に変わるとも思えないし、変わると思っているとしたらそれはそれでたいそう危険な異なのではないだろうか。

 この本を読んだことで感じたのはむしろそっちの方で、バタイユが「聖なるもの」とか「非・知の夜」とかいって、西洋人が重視する理性的な世界の裏にある、人間が普遍的に持っている不合理な暗部、獣性ともちょっと違う、二本足で歩いて頭と恥部にしか毛の残っていない、脳髄を食べることを好み(歯の構造がそうなんだそうですね こわ)、前足の先がやけにひょろひょろと長い気持ち悪い生き物としての「人間性」(犬性とか、猫性、とかと並列に並ぶべき)にいくらビカビカにライトを当てて、「広島をみろ、アウシュビッツをみろ、実際に起こったことだ、我々人間が起こしたことだ」と訴えても、今ひとつちゃんと聞いてもらえやしないその点…の普遍性にウヒイとなった。気がした。

バタイユは同時代の支配的な道徳判断に抗っている。彼にしてみれば、このようにナチスの戦争責任者や対独協力者を文明社会から切り離す態度それ自体が、つまり人間の何たるかに盲いたままでいる態度自体が、当の文明社会を戦争に導く原因なのである。(中略)

 各人のなかにナチスの可能性が潜んでいることを肯定したうえでなくては、言い換えればナチスの残虐行為が人間の「総体」の一部に含まれることを知ったうえでなくては、人類を破滅から救う善後策は生みだせないと考えているのである。

 

 あなたも私も君も僕も、ナチスになりうると思っておけ、ゆめゆめ忘れるな、とバタイユはいう。

 ちょうどこれを読んでいる最中に、NHKの「映像の世紀プレミアム」で中国共産党の歴史を見た。孫文辛亥革命から、天安門事件までの映像の歴史。そこでサルトルがノーテンキ(ごめん サルトルについてはよく知らないので傍目から見てそう思ってしまう)に「中国共産党サイコー」って言ってたの、バタイユと対照的だ。マルクスにも批判的だったバタイユは、権威や権力の固定化に疑いの目を持つ。それが危険なのはどうしてか。バタイユ曰く、聖性が顕現するのはほんの一瞬なのに、権威となるそれが固定化されてしまう。そんなものは嘘だろ、——てこと?

 入門書にして所々めちゃくちゃわかりにくくて、これこそが東西の断絶、マリアナ海溝なのか、もしくはバタイユが一時期そうだったように、文章って権威を生みやすいから嫌なのよねーといって、論理を意図的にぐちゃぐちゃにしたからなのか、そこんところはよくわからない。

 最晩年、「エロスの涙」でグラビア写真で「聖性とはなにか」を語ろうとしたというバタイユだが、画像と文章でなんとか語ろうというのならおあつらえ向きのものがあるじゃん。

 もし、バタイユが漫画を語ったらどうなるんだろう? とかふと思った。

 いくらぎりぎり19世紀生まれって言ったって、すでに映画もあればバンドデシネだってあったフランスを生きた人である。とっくの昔にそのあたりは考えたかもしれないし、いやまったく掠ってないのかも、しれない。

 ——ワンチャン映画論はあるんじゃない?

 

 とりあえずこれ読んだから後書きの進めるままに次は山本功訳の「文学と悪」でも読もうかなと思っている。

 

追記:

ちなみに「課題」っていうか、この本を読んでて一番しんどかったのは、「低い物質」とか「フォルスとピュイサンス」の件。「低い物質」… フロイトエスっぽいもののようでエスじゃねえんだよな〜わっかんねえかなあ、わかんねえだろうな。「人間のばかばかしくて恐ろしい闇」だそうである。フーン… わっかんねえ。

 「フォルスとピュイサンス」に至っては本文中で終始ルビで登場する「力(フォルス)」「力(ピュイサンス)」ってなってるから、もう用語が交錯しちゃって しっちゃかめっちゃか。だいたい「ピ」なのか「ビ」なのかわからんし。めっちゃ目をこらしてもわからなかったので暫定的に「ピ」にしとく。ググったら「ピ」であってるらしい ちなみにググると上位サジェストは菓子屋がでる。ピュイサンスのほうは権威の背後にある何からしい。「ちからが…ほしいか…」って言われる時にもらえると嬉しい方。いっぽうの「フォルス」は衝動とかそういったものに近い、のか? 文脈判断ではそうかな。

 聖性と罪も、著者が言う通り今ひとつピンとこない。そんなに「フォルス」が存在することを肯定するなら、売春宿はしごして泣いてるんじゃないよ…(そういう話が後半に載ってる)。

 バタイユは若い頃の方がむしろ勤勉で敬虔、カトリックに入信してその後多分「ちょっと違うこと」に気づいて前向きに棄教したらしい。

 長いので引用は面倒くさいので省くが、本書59Pに「バタイユカトリック信仰を棄てるに至った経緯」が書いてある。

 ベルグソンにあうまえに読んでおいた「笑い」によって信仰が相対化され、「信仰を一つの戯れにして」しまうという現象が起こる…乱暴にようやくするとそんな感じ。その後バタイユは「世界の深奥すなわち無」という認識に至ったそうであるが、この「無」っていうのは仏教の「空」的なものではなくってですね。「無意味である、理性的でない、冗談、戯れの類だ」というらしいのだが。無神論でもなくって、そういうもの「こそが」聖性だ、みたいな感じになってゆく。

 どうも一瞬、整数があれば虚数があるみたいな、そういう、ある存在があるとかならずその裏に同じ質量を伴ったアンチなんとかを想定してしまうのが西欧的なのかな、と一瞬だけ、思ったけど、どうなんだろう。直感であって確証はない。

 神秘的な体験もまた、一瞬現れてその後はすぐに罪になっちゃうもんだ、ということらしいけど…? うーん。