日月星辰ブログ

Vive hodie.

おとつい見た夢

夢って、見た直後はすごく霊感に満ちていて、いやこれは素晴らしい体験をした、ぜひ何かに書いておきたい、と思っているのに、しばらくするとじょじょにどうでもよくなってきてしまうものですよね。他人の夢の話ほど、面白くないものはない、といった作家がいるらしい、と人づてに聞きましたが、それはまあそれとして、夢の話をします。

ここのところ2度寝がマイブームで、6時に鳴り出すiPhoneの目覚まし時計を一度止めた上で、7時半まで寝ます。その間がいろいろな夢をみるチャンスになっているようです。

一昨日はとにかくどこか、路面がひどく悪い中をどうにかして誰かに会いに行かなくてはならない、という夢でした。しかも自分が張遼だった気がする。せっかく張遼になった夢なら、もっとこう、一騎当千でばっさばっさ人を切っているとか、爽快な夢が見たいものですが、中身の一部は多分私なので、だいたい情けないシチュエーションに追い込まれているケースが多いです。ところでこの、他人になる夢っていうの、私はよく見ますが、みなさんはいかがですか? 見知らぬ他人の場合もあるし、なんか全然関係ないミュージシャンとか芸能人とかの場合もあれば、今回のように、好きなキャラとかの時もあります。いずれにせよ、だいたいにおいて私でも経験できるような他愛もないシチュエーションに巻き込まれている場合が多いです。もったいないことだ。

さて、閑話休題張遼な私は、誰か重要な人物に会いに悪路を乗り越えなければならないのですが、とにかく、雪なのか岩なのか、行く手を阻んでいて車が出せません。移動手段は車らしいのです。重要な人物というのが誰なのかはこの時点ではよくわかっておらず、とにかく早く会わなくてはいろいろまずいことになる、という強迫観念ばかりが肥大しています。仕方なく車外に出て、徒歩で進まなくては、と岩道をしばらく歩いてゆくと、ようやく文明の臭いのするところにでます。

風景はなんというか、行ったこともないけど、南米の田舎町のような、白茶けた道と、ぽつぽつと佇んでいるいろいろなお店、――食料品店やら、なにやらそういう、――どう見ても二十一世紀の町並みじゃない、二十世紀も三十年代ぐらいの佇まいですが、雰囲気は悪くない、あたたかそうな街です。これは助かった、と思って行き交う車がないか探してみる。するとむこうから、ポンコツのセダンが猛スピードでやってくるので、親指を立てて止める。みればそれは、タクシーのようでした。

「どうしてもどこそこへ行かなければならない、できれば乗せてほしい」 というようなことを、運転手の小柄な初老の女性に告げる。この初老の女性が、さながら宮崎アニメに出てくる女傑のように、ちゃきちゃきしていて、可愛げがあって、いかにも男まさりそうだが、どうも危なっかしい。どう危なっかしいって運転がもうそれはすごく乱暴で、車もあちこち凹んでいる。うひい、と思ってもどうもこのチャンスを逃すと、どこそこへいくのも随分後になってしまうに違いない、と張遼ないしは私は覚悟を決める。その時ばかりはまあ張遼だし、まあどっかぶっつけても簡単には壊れなかろうとか、この先も誰かが助けてくれるかもしれない、というような楽天的な考えでいます。

街の道も凸凹で、百キロ以上のスピードで飛ばされると揺れて揺れて恐ろしいし、街を抜けると再び悪路です。飛んだり跳ねたりしながらも、やっぱりすごいスピードである。生きた心地がしない。よくひっくり返らないものだ、と思いますがそこは夢です。なんとか飛んだりはねたりしながら、洞窟のようなところに出ます。

「ここでいい、ありがとう」とおばさんにお金を払って、車を降ります。洞窟内は明かりも灯されていて、ちょっと昔の戦隊物の悪の組織のアジトのような雰囲気です。そこを恐る恐る、入っていっておくまでゆくと、臧覇がいます。悪人に囚われていたのか、自分がアジトの主人なのかは、よくわかりませんが、これで目的が果たされた、と喜んでいるような気がしたので、多分臧覇に会いに行くのが火急だったのでしょう。現金なものです。

「ここまで来たのはいいが、帰る方法が判らない。帰るのはものすごく難儀をしそうだ」というような旨のことを張遼がいうと、臧覇は、それならちょうど赤兎がいる、一緒に乗っていくか?という。それはもう涙がでるほどうれしくて、なんて頼もしいやつなんだ、抱かれてもいいと思っているところで目が覚めました。寝ぼけているので目が覚めたあとも、だから臧遼なのだな、じゃあ仕方がない、とか思っていたので病膏肓にナントカですが、よくよく考えたらだからもへちまもない。

だいたいなんで赤兎なんだ。

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