日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書感想:「偏狂者の系譜」5

4、水行陸行

 

 松本清張「偏狂者の系譜」いよいよラストの収録作である。途中、旅行だったり、コロナの療養だったりを挟んでしまったので時間が空いてしまった

 オタクにはあるあるだと思うんだけど、我々は「同好の士」に弱い。当節風にいうと「ちょろい」といってもいい。すでにそういう詐欺ビジネスもこの世にはあるのかもしれないが、若干手間暇がかかるためなのかあまり「ひっかかった」というオタクの人のことを聞いたことがない。もとよりオタクは信用ならない。約束を平気で破ったり、人としての倫理観に欠ける人もいなくはない。そもそも「同学の士」だの「仕事仲間」だの、あるいは「同郷人」などよりもオタク仲間の場合はエンカウント範囲が広い。「同学の士」ならまあ大学は同じだったり、仕事仲間なら年収は似たようなもんだったりするが、そうはいかない。必然、いろいろな社会の層に属する人と巡り合いがちなのが、趣味の仲間ということになる。

 良い方に考えればいわば「社会勉強になる」ともいえる。多少時間や金銭の倫理観がずれている人も「あいつはそういうやつだから」で飲み込むことができるようになれば、人間の器も大きくなった、といえるだろう。いちいち細かいことに拘泥しないで、「まあ、趣味だけのつながりだし」と相手に寛容になる訓練にもなる。仕事の仲間なんて価値観似てるし、どんなにむかついてもまあ思考に予測ができるしな・・・と仕事の人間関係にも寛容になれる。一石二鳥だ。

「同好の士」だというだけでなんとなく相手に親しみを持ってしまい、なんとなれば、普段の警戒心はどこへやら、ついお友達になってしまったりするのはオタクの宿命みたいなもんである。特に、「こんなネタ、なかなか他の人には話せないんですよね」なんていう専門分野がある人は余計に気をつけねばならない。

 

 これ、まさにそういう話だから。

 

 日本の、60年代から70年代のある時期に、「邪馬台国ブーム」というものがあったらしい、というのを、——昭和の文献、小説でも漫画でもなんでもいいんだけど、に親しんでいると早晩、勘づくことになる。最近ではいまさら邪馬台国もない、という雰囲気がある気がする。「やっぱ不明」で決着がついてしまったのかしら。

 この、「水行陸行」はその、邪馬台国の場所のミステリーに魅入られてしまったとある人物の運命を描いた作品である。「偏狂者の系譜」全体が、学究の徒のいろんなこころを抉ってくるのだが、まあ私はその点はそれほど学究肌じゃないのでこなかったが、この作品の「オタクが沼に誘い込まれて一緒に落ちていく」さまにはとむねをつかれた。というか、ぎゅっと来た。ぎゅっと。

 えろう切なくなってしまったのである。コロナ明けの気管が、今思い出しても閉まる。

 東京のとある大学の講師を務める「私」が別の用事で大分・安心院の神社を訪れていると、そこにやって来た浜中という男が、「邪馬台国九州説」を滔々と唱え出す。その神社もどうやらチェックポイントだったらしい。「私」は別に邪馬台国ブームには興味ないのでふんふんと聞いているが、どうやら浜中の説もなかなか説得力あるなと思って聞いていて、半日彼に付き合ってあげる。若干旅程を変更して、同じ宿の別の部屋に泊まったのだけど、それっきり別れてしまう。それだけなら「旅のほっこりエピソード」なんだけど、その後しばらくして「私」のところに奇妙な手紙が届くようになる。そのとき渡した自分の名刺を浜中が方々で見せては、郷土史を趣味にしている人々にお金を出してもらって、邪馬台国の論文集を作ろうとしているのに、音沙汰がなくなった、というんである。

 なにそれ、アンソロ詐欺じゃん。

 同人誌をある程度やりこんでいるひとならピンとくるに違いない。一時の盛り上がりで「なんとかカプアンソロつくろーよ」といいだしたそそっかしい子供にいろいろ動かされた挙句にばっくれられたとか、あるいは自分が主催で人を集めていたのに、書くと言ってた人がばっくれたとか、よくある話である。似たようなシチュエーション。しかしこの作品の時代はインターネットはない時代である。ちょろっとTWITTERのDMから連絡を入れてはいアンソロというわけにはいかない。浜中もわざわざ有志に行脚して、お金を集めていたのに、失踪してしまった。「私」は軽々に自分の名刺を渡してしまったことを少し後悔し、そのお手紙に返事を書く。

 すると今度は「浜中の奥さん」らしき人からちょっと不思議な手紙が舞い込んでくる。

 話の流れをここで詳らかにするつもりはない。まあ筋も面白いんだけど、この作品中の書簡がかなり趣深くて私は本作が大好きになってしまった。初めの郷土史家の問い合わせの手紙にしろ、浜中妻からの困惑の手紙にしろ、直接は面識はないもののの、ちょっと名刺を渡してしまったばっかりに巻き込まれてしまった「私」の気分も、また読者の気持ちも害しない、上品な手紙である。もし、自分がアンソロ詐欺に巻き込まれても、これぐらい美しい手紙を書きたい。

 もちろん小説の結末も、その中で浜中の口を借りて語られる邪馬台国の場所の説も読み応えがあるんだけど、この作品、実は書簡小説としてもかなり素晴らしいものなんじゃないか、と思っている。もちろん、名文家清張が書いているからそもそも名文に決まってるんだけど、ほんとにいいから。この書簡。ここだけ抜き出してグッズにして欲しい。要望が当節のオタクすぎて台無し。

 おすすめ。

新型コロナ療養中

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5類落ちのタイミングでまんまと引っかかってしまった地獄の椅子取りゲーム とは言え地獄度はそんなに深くない。

5類落ちしてからなってよかったのは、濃厚接触者検査とかそう言う周囲への影響が少なめで済んだところと、保健所やらなんやらに通さなくてよくなったところか。あとニュースで発表される人数にも加えられなくて済む。

匂いが感じにくくなると聞いていたのでドキドキしていたが、どうやらそれは療養3日目の今日かららしい。手を洗った際のハンドソープの匂いがしなくなっている。鼻の中にはずっと違和感があり、感覚的にはウイルスとの戦闘で焼け野原になった嗅覚器官が一時的に機能を失っている感じ。自分の鼻の膿みたいな臭いは常にする。嗅覚はバカになったわけではなくて、自らの硝煙に巻かれているのではないだろうか。どうせなら良い匂いだけ嗅いでたいよねー。これがなくなったら匂いも戻るんじゃないかな。知らんけど。

詳しい闘病日記は面白くもなりそうにないがのちに書いておこうと思う。特効薬はまだ開発されていないので、対処的なお薬をいろいろもらって飲みながら、あとは寝て治してるだけと言う感じがする。白湯をたくさん、飲みなよ。

まだインフルエンザの方がタミフルでガッと、と言う感じがして良いなーと思う。インフルエンザなったことないけど。

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これはお迎えした由竹。

読書感想:「偏狂者の系譜」4 

何かを懸命になって調べる、しらみつぶしに、ひたすらに、全人生をかけて、という過程には、どうも妙な興奮を覚える。そういうシチュエーションそのものがエンタテイメントなのではないか、とすら思う。近年の映画で言えば「シン・ゴジラ」では、「各省庁のはみ出しもの」が狭い空間に集められ、研究に没頭するシーンがある。そもそもあの映画のほとんどのシーンがそれだったような気すらする。あそこで高橋一生が「あーっ! あーっ!」とひらめきの奇声を発したことで、彼はさらに役者としての名声を上げた——気がする。

 何かをひたすらに調べる人を、側から見てるのって、面白いんじゃないか、ということに割と多くの日本人が気づいてしまっている。そうでなければ探偵小説やら推理小説は流行らない。

 そんな昨今の読者のみんなにおすすめの短編がこちら!

 

3、粗い網版

 

 3編めに収録されたこの作品の初読の印象は「結末が切ないシン・ゴジラ」だった。

 戦前のお話である。特高警察というものが日本の治安を厳しく守っていた。特高といえば、戦後の創作ではだいたい悪者扱いが普通であるが、本作では福岡県特高課長秋島さんが主人公である。青年将校たちのクーデターが最近あったばかりで、民心は政治に不信感を抱いている。またクーデターが起こっては困るので、その前に「芽」となりそうなものは積んでおかなきゃね、というような指令が、この秋島さんのところに転がりこんでくる。

 あやしげな新興宗教が、どうやら現天皇を批判しているらしい。批判、などという理性的なものではない、神がかりみたいになった老婆がつぶやく「おことば」にどうやら不敬なことが書かれてあるらしい。

 宗教団体自体のモデルは、どうも「大本」に似ているな、とピンときた。出口なおという田舎の老婆がある日突然目覚めて、「おことば」を発するようになる。それを宗教としてまとめたのが出口王仁三郎、というふうに私は認識している(ここで先方のWEBサイトあたりから引用してもいいんだが、ちょっとそぐわないのでやめとく)。そこにピンとくると作品にのめりこみやすくなるが、知らなくても、この新興宗教を危険視する気持ち自体は十分想像できる。

 作品から「真道教」についての記述をすこし引用しておく。似てる。

 真道教というのは新興宗教で、神道の系列である。真道教の本部は京都府下の矢持町にあった。教主は阿守古智彦という。全国に五十万人くらいの信者をもって、別院に支部も多い。

道教の開祖は、明治の中ごろに死んだ京都府下の田舎の老婆である。老婆は貧農の寡婦だったが、いつからか神がかりの状態となり、むやみと紙にカナ文字を書き殴るようになった。今の教主阿守古智彦というのはあとで改めた名前だが、彼がその老婆の娘と結婚して暮らしているうち、老婆のカナ書き文字に「霊感」を受けて、それから真道教を開いた。

 細部をちょっとずつ変えているが、まあそっくり。

 戦前・特高といえば何でもかんでもダメ、ダメでない善良な市民でも理由をつけてしょっ引く、宗教家は全員牢屋、ぐらいのイメージがあったがそんなわけはない。戦前だってそれ相応の「社会」があったのだ。信教の自由もそんなわけで認められているから、信者たちを「宗教信じてるから」で引っ張れない。そのあたりは、今の統一教会問題とあまり変わらないように思う。暗に警保局長に「弾圧しろ」と言われたと意図を汲んだものの、秋島は「なぜ、弾圧しなければならないのか」と考える。保安課長によると、「行動力を持ちすぎて」いて、「これが少し心配」ということらしい。「必ず弾圧せよというわけではない。だから、君に調べてもらいたい」とかいう。いくら特高とはいえ、無茶はできない雰囲気が描かれている。

 秋島はひとまず、不敬罪で訴えられ、のち免訴となった前の裁判の資料を熟読する。それだけじゃ足りない、と思って、人伝に教本を買い漁っては読みまくる。一人じゃ手が足りなくなるまで。そして、こういう感じになる。

彼は手わけをして、読書の分担を決めた。さらに各人が書抜きしたものはその場で謄写することにした。そうしなければ、あとからでは量が多すぎて収拾つかぬことになる。そのためにガリ版器機二台が部屋に持込まれた。常時、部屋に閉じこもる人員は五名となった。彼らは府史編纂の資料係や助手であった。

 シン・ゴジラやん。

 

 本作では(でも、か)誰も死なないし、誰も殺されない。冒頭近くに書いてあった群馬の製糸組合の組合長の自殺の新聞記事ぐらいか。あれは何かの暗示かと思ったらそうでもなかった。ミスリードか、時代のイメージを軽く示唆するための挿話か。清張は無駄なことは書かないだろうから、ここにも相当の意味があるのではないか、と思ってざっと調べたら(今はグーグル先生があるからなんでもすぐわかる)やはり、群馬社事件という実在の事件が、昭和9年10月22日に起きている。かいこの繭を安く買って高く売り、利幅を着服したという大久保佐一氏が自殺している。

 

dl.ndl.go.jp

 

 不名誉で「行幸が中止になる」と人が死ぬ時代ということを描きたいこともあるし、時期の示唆もあるだろう。こういうセンセーショナルな事件を思わせぶりに描いてそういうことを示唆しておく手腕がにくい。whenの示し方がしゃれちらかしている。

 ただ、結末はすごくこう、酷い。もりあげてもりあげてわーっていって、えー!である。読んで。

 

読書感想:松本清張「偏狂者の系譜」3

表題作がいかに良いかを書き殴る回。その2。

それほどネタバレでないのでワンクッションはやめる。ひとつずつ丁寧にやらないと気が済まない。

 

2、皿倉学説

 これまた最高。今年65歳になる退官した医学部教授・採銅健也。採銅なんて姓が実在するのかは知らないが、なんか「斎藤さん」じゃ憚られるからこうしたのだろうか。
 吉祥寺駅から一時間のところにある学校に週一通っているが、特に講座とか持ってるわけじゃない。ただし実績はしっかりしている。「高名な採銅教授」なのである。一応、官大の名誉教授の地位は得ているが、その選出を教授会に否定されかかったそうだ。こいつも、「身辺にとかくの噂が」ある男なのである。気丈な奥さんと「つい数年前」に離婚して家を飛び出し、愛人の家に転がり込み、そのせいで自宅の大量の蔵書を読むことすらかなわない。
 その採銅先生がひょんなことから、田舎の医師・皿倉さんが書いたという「皿倉学説」の論文を見つける。別に積極的に何かを調べていた時に見つけたものではない。そういう積極性や勤勉はもう採銅先生にはそれほど残ってない。先に書いたように、講座も持ってないし。

ではどうして皿倉学説に出会ったかというと、弟子で、今は採銅がやっかいになっている大学の主任教授の長田氏から、「読みましたか?」と言われて読んだのだ。この「読みましたか?」が絶妙だ。学者というのは「読んでみてください」とか言わない。「読みましたか?」だ。読んでいることが前提なんである。この「読みましたか?」、遠い昔、自分の専攻の学会を除いて見た時に本当に先生方がみんな言っていてびっくりした。噂は本当だったんだ…とわくわくしたものである。
 そもかく、「読みましたか?」と言われた採銅先生は、読んでみた。で、「なんてことはない荒唐無稽、推理小説の代わりに読んだよ」みたいなことをいう。そのくせ、長田教授をはじめ、信頼できそうな弟子に会うごとに、「あれについてどう思うかね?」とか聞いている。白眼視しながら、興味津々。馬鹿にしてるくせに、囚われている。
 この、「皿倉学説」と採銅先生の関係は、そのままかれの愛人河田喜美子と先生の関係にもどこか似た感じになっている。たった数年前、自宅を抜けていっしょになったはずの愛人のことをいまやちっとも愛していない。軽蔑している。疎んじてもいる。先生がひろう貴美子のセリフは、お惣菜の物価が上がっただのといった愚痴か、帰るなりに勝手に茶を沸かすのは威厳に欠けるだのとかいう馬鹿みたいな小言ばかりである。こんなん、愛してるわけないだろ。
 地の文が書いたことだからといって、主人公の心情を書き表していないとは言えない。特に小説というものは、地の文が事実を取捨選択するのすら、ある意図が発生する。先生は喜美子のことなんかうぜえなとしか思ってなくて、ろくにみてもいないに違いない、とわかる。かわいいとことか、愛すべきとこは全然感受していない。そういう地の文。その上、はっきり「あの女に遭わなければよかった」とか言っている。「遭う」という字は災難に遭遇した時とかに使う漢字であろう。


 白眼視している愛人、田舎医師の論文。結びつかないような二つを「五十匹の猿」という、論文の内部の文言がつなぎとめている。「五十匹の猿」とは皿倉が学説を提唱するにあたって実験で脳を開いて「潰した」猿たちのことである。これが奇妙に、しかし巧妙かつ不自然でなく、リフレインされる。採銅先生は愛人と話している途中で一見脈絡もなくこのフレーズを思い出す。学説を気楽に、他の教授連と検証する時にも度々「猿を五十匹も潰したそうですよ」という。「でもまあ、猿ですしな」「人間とは脳の構造が違いますし」云々。
 別に謎を秘めているわけでもなんでもない。皿倉論文は出来の悪い、机上の空論や学説とは言えぬ突飛な飛躍をする駄文で、五十匹の猿はそこに必然として描かれてある犠牲動物にすぎない。すぎないはずなのだ。どこが不気味とも言えない。不気味といえば猿の脳を開いている田舎医師のビジョンはなかなか不気味では、ある。
 五十匹の猿。
 他の場所では明晰を貫いている清張が、示唆ばかりをして明言は避ける、「明白な事実」が読者の眼前に現れた瞬間、ぞっとする。
 ラストのオチもその「暗示された真実」と共鳴して、不気味に響く。
 めちゃ良い短編。読んで。

(以下次号)

読書感想:松本清張「偏狂者の系譜」

洒落たタイトルと装丁、表紙には「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection 3」とある。角川文庫版のリニューアル版かなということがわかる。こう冠されているのであれば当節ならWEBサイトぐらいあるんじゃないか、とぐぐったり、KADOKAWAのサイトを見に行ったりしたのに全然特設サイトとか出てこない。おいいい。「世界探検全集」を見習い給え。特設サイトまではないが、TOPバナー出しとるぞ。だいたいこのままでは「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection」って何? の謎がさっぱり解けない。書店でもしかしたら棚展開してた時にPOPとかあったかもしれないが、そんなもん、本を取って買ったら一瞬で忘れるわい。ちょっとさ、本の腰あたりに「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection」とか書いておけば、モノズキな読者が勝手にしらべて集めてくれる、とでも思ってんの? 他社作品の【推しの子】のバナーとか貼っとる場合か。アニメに出資してるのはわかるけど、それ集英社のじゃん。いやいや、と思って「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection」でKADOKAWAのサイト内検索かけてもでてこねえし! 編集部それでいいの?

 いったいどんな企画とチームがこの「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection」運用しているのかはわからない。奥付をみたら「平成19年」とか書いてあったので、私が手に取ったのが遅かったのも悪い。プロジェクトチームはとうの昔に解散、の可能性はまあ、ある。でもまあ、ちゃんと売れてるから重版はかかっている? それともとうに「店頭在庫のみ」状態となって細々と八重洲ブックセンターとかの本棚でひっそりたなざらしにあっている? 令和3年6刷、と書いてあったので、重版は多分、続いているんだろう。清張だし。「Matsumoto Seicho Showa 30's Collection」だし。

 どんなメディアでも、インターネットをうまく使わない手はないぜ、と私なんかは結構思っている。自分のキャリアが100パーセント、「こっちの世界」だったこともあるが、私も「Showa 30's Collection」とかいうことばにわりと近いところを守備としている。なので、この冷遇はちょっと切なく思ってしまうのである。もっとさ、このタイトルつけた編集部かなんかがさ、大々的にわーわー騒げばいいのに、と思う。

「偏狂者の系譜」、なんて洒落たタイトルなんだろう。作家自選・自命名短編集なのか、これを編んだどこかのタイミングの編集者が勝手に付けたものなのかは知らないが、何か「屋根裏の散歩者」みたいな期待を持って、手に取ってしまう。そうして、一時閉店間際の八重洲ブックセンターで手に取った一冊である。だからつい、やえせんの名前をだしてしまった。しかし結論から言うとめちゃくちゃいい買い物だった。
 学生時代にミステリ同好会にいたのに、清張はほぼ読んでいなかった。点と線ぐらいは読んでいるが、当時は今より輪をかけて大雑把な頭をしており、緻密な時刻表のダイヤの裏をついたトリックに驚きも感動も覚えられなかったというのがおそらくは敗因である。清張の冷徹な正確さに敗北したのである。読者として。高校上がりたてのうすらぼんやりした女子大生にきゅっとわかる代物ではない。
 収録作品は四遍。いずれも選びに選び抜かれた言葉で描かれ、研ぎに研ぎ澄まされた構成と奥ゆかしくも日本武道みたいな端正な所作で描かれた、——老残の研究者だったり、シン・ゴジラだったりする。
 どういうことだか、一編一編、ネタをバラしながらご紹介したい。ほんと、いまさら「松本清張は文豪ですなあ」って言うようなかんじで、甚だ間が抜けてるのはご容赦いただきたい。
 とりあえずまず、表題の本を読んで。

(以下次号)

備忘

なかなか大人になると自他共に「とほほ」なところを見せなくなる。

若い頃は割と無防備に弱点を晒したり、わがままを言ってみたり、約束をぶっちぎったり、酔っぱらったり、愚にもつかない怪気炎を吐いたり、大幅に待ち合わせに遅れたりしたものだが(一部今でもやっている)、大人になってからの友達にはなかなか愚痴とか晒しにくい。

 向こうも心得たもので、お互いおすましして、なるべく相手に損はさせないように振る舞ってみてはいる。そういう友人関係は頼もしくもあり、居心地が良くもある。たまに、相手のとほほな面が見えたりした時に初めて、「この人のこと、わたしはどう思っていたのか」が露呈する——気がする。

 そこでそれまでになれば、それまでのお付き合いだ。どんなにガタガタなダメ人間だということがわかってもなお、お友達でいようと思える人は、多分私自身がその人のことを本当に好きなんだろう、と思う。

  お付き合いのリトマス試験紙に、この判断基準はいけるんじゃないか? Twitterなんかだとすぐ一般論で「こんな人からは速やかに離れましょう」とか流れてくるが、人間はそう単純にできてはいない。なにか客観的な事実があてはまるかどうか、とかで人を選ばないほうがよろしい。お惣菜のポテトサラダを買うことを憎んでいても、その他のところでけっこういいやつで、私は嫌いじゃない人なら、別にポテトサラダぐらい買わなくてもいい。

 なにしろこれなら完全に主観だから角も立たんし。

 

 まあ、それはそれとして。連休最後の日曜日は写真整理をした。ハマスタで撮った写真をいくつかピックアップ。いいやつを選んだというほどではないが、広島のベンチはよく撮れてたんじゃないだろうか。

試合前の広島のベンチ。内野指定席だったのでかなりくっきりとらえられている 使用カメラはオリンパス・ペン E-P3

何かを指差して話している人、座っている人、立っている人、いろいろ。

どれぐらい遠くまで撮れるだろう、とセンターを守っていた人を撮ってみた。

 なんとなーく絵が暗い気がする。カメラのせいか、メンテ不足のせいか、設定のせいかわからない。おいおい解決していこう…

 

 母から送られてきた実家のお花の写真。