日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書感想:「偏狂者の系譜」4 

何かを懸命になって調べる、しらみつぶしに、ひたすらに、全人生をかけて、という過程には、どうも妙な興奮を覚える。そういうシチュエーションそのものがエンタテイメントなのではないか、とすら思う。近年の映画で言えば「シン・ゴジラ」では、「各省庁のはみ出しもの」が狭い空間に集められ、研究に没頭するシーンがある。そもそもあの映画のほとんどのシーンがそれだったような気すらする。あそこで高橋一生が「あーっ! あーっ!」とひらめきの奇声を発したことで、彼はさらに役者としての名声を上げた——気がする。

 何かをひたすらに調べる人を、側から見てるのって、面白いんじゃないか、ということに割と多くの日本人が気づいてしまっている。そうでなければ探偵小説やら推理小説は流行らない。

 そんな昨今の読者のみんなにおすすめの短編がこちら!

 

3、粗い網版

 

 3編めに収録されたこの作品の初読の印象は「結末が切ないシン・ゴジラ」だった。

 戦前のお話である。特高警察というものが日本の治安を厳しく守っていた。特高といえば、戦後の創作ではだいたい悪者扱いが普通であるが、本作では福岡県特高課長秋島さんが主人公である。青年将校たちのクーデターが最近あったばかりで、民心は政治に不信感を抱いている。またクーデターが起こっては困るので、その前に「芽」となりそうなものは積んでおかなきゃね、というような指令が、この秋島さんのところに転がりこんでくる。

 あやしげな新興宗教が、どうやら現天皇を批判しているらしい。批判、などという理性的なものではない、神がかりみたいになった老婆がつぶやく「おことば」にどうやら不敬なことが書かれてあるらしい。

 宗教団体自体のモデルは、どうも「大本」に似ているな、とピンときた。出口なおという田舎の老婆がある日突然目覚めて、「おことば」を発するようになる。それを宗教としてまとめたのが出口王仁三郎、というふうに私は認識している(ここで先方のWEBサイトあたりから引用してもいいんだが、ちょっとそぐわないのでやめとく)。そこにピンとくると作品にのめりこみやすくなるが、知らなくても、この新興宗教を危険視する気持ち自体は十分想像できる。

 作品から「真道教」についての記述をすこし引用しておく。似てる。

 真道教というのは新興宗教で、神道の系列である。真道教の本部は京都府下の矢持町にあった。教主は阿守古智彦という。全国に五十万人くらいの信者をもって、別院に支部も多い。

道教の開祖は、明治の中ごろに死んだ京都府下の田舎の老婆である。老婆は貧農の寡婦だったが、いつからか神がかりの状態となり、むやみと紙にカナ文字を書き殴るようになった。今の教主阿守古智彦というのはあとで改めた名前だが、彼がその老婆の娘と結婚して暮らしているうち、老婆のカナ書き文字に「霊感」を受けて、それから真道教を開いた。

 細部をちょっとずつ変えているが、まあそっくり。

 戦前・特高といえば何でもかんでもダメ、ダメでない善良な市民でも理由をつけてしょっ引く、宗教家は全員牢屋、ぐらいのイメージがあったがそんなわけはない。戦前だってそれ相応の「社会」があったのだ。信教の自由もそんなわけで認められているから、信者たちを「宗教信じてるから」で引っ張れない。そのあたりは、今の統一教会問題とあまり変わらないように思う。暗に警保局長に「弾圧しろ」と言われたと意図を汲んだものの、秋島は「なぜ、弾圧しなければならないのか」と考える。保安課長によると、「行動力を持ちすぎて」いて、「これが少し心配」ということらしい。「必ず弾圧せよというわけではない。だから、君に調べてもらいたい」とかいう。いくら特高とはいえ、無茶はできない雰囲気が描かれている。

 秋島はひとまず、不敬罪で訴えられ、のち免訴となった前の裁判の資料を熟読する。それだけじゃ足りない、と思って、人伝に教本を買い漁っては読みまくる。一人じゃ手が足りなくなるまで。そして、こういう感じになる。

彼は手わけをして、読書の分担を決めた。さらに各人が書抜きしたものはその場で謄写することにした。そうしなければ、あとからでは量が多すぎて収拾つかぬことになる。そのためにガリ版器機二台が部屋に持込まれた。常時、部屋に閉じこもる人員は五名となった。彼らは府史編纂の資料係や助手であった。

 シン・ゴジラやん。

 

 本作では(でも、か)誰も死なないし、誰も殺されない。冒頭近くに書いてあった群馬の製糸組合の組合長の自殺の新聞記事ぐらいか。あれは何かの暗示かと思ったらそうでもなかった。ミスリードか、時代のイメージを軽く示唆するための挿話か。清張は無駄なことは書かないだろうから、ここにも相当の意味があるのではないか、と思ってざっと調べたら(今はグーグル先生があるからなんでもすぐわかる)やはり、群馬社事件という実在の事件が、昭和9年10月22日に起きている。かいこの繭を安く買って高く売り、利幅を着服したという大久保佐一氏が自殺している。

 

dl.ndl.go.jp

 

 不名誉で「行幸が中止になる」と人が死ぬ時代ということを描きたいこともあるし、時期の示唆もあるだろう。こういうセンセーショナルな事件を思わせぶりに描いてそういうことを示唆しておく手腕がにくい。whenの示し方がしゃれちらかしている。

 ただ、結末はすごくこう、酷い。もりあげてもりあげてわーっていって、えー!である。読んで。