日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書感想:松本清張「偏狂者の系譜」3

表題作がいかに良いかを書き殴る回。その2。

それほどネタバレでないのでワンクッションはやめる。ひとつずつ丁寧にやらないと気が済まない。

 

2、皿倉学説

 これまた最高。今年65歳になる退官した医学部教授・採銅健也。採銅なんて姓が実在するのかは知らないが、なんか「斎藤さん」じゃ憚られるからこうしたのだろうか。
 吉祥寺駅から一時間のところにある学校に週一通っているが、特に講座とか持ってるわけじゃない。ただし実績はしっかりしている。「高名な採銅教授」なのである。一応、官大の名誉教授の地位は得ているが、その選出を教授会に否定されかかったそうだ。こいつも、「身辺にとかくの噂が」ある男なのである。気丈な奥さんと「つい数年前」に離婚して家を飛び出し、愛人の家に転がり込み、そのせいで自宅の大量の蔵書を読むことすらかなわない。
 その採銅先生がひょんなことから、田舎の医師・皿倉さんが書いたという「皿倉学説」の論文を見つける。別に積極的に何かを調べていた時に見つけたものではない。そういう積極性や勤勉はもう採銅先生にはそれほど残ってない。先に書いたように、講座も持ってないし。

ではどうして皿倉学説に出会ったかというと、弟子で、今は採銅がやっかいになっている大学の主任教授の長田氏から、「読みましたか?」と言われて読んだのだ。この「読みましたか?」が絶妙だ。学者というのは「読んでみてください」とか言わない。「読みましたか?」だ。読んでいることが前提なんである。この「読みましたか?」、遠い昔、自分の専攻の学会を除いて見た時に本当に先生方がみんな言っていてびっくりした。噂は本当だったんだ…とわくわくしたものである。
 そもかく、「読みましたか?」と言われた採銅先生は、読んでみた。で、「なんてことはない荒唐無稽、推理小説の代わりに読んだよ」みたいなことをいう。そのくせ、長田教授をはじめ、信頼できそうな弟子に会うごとに、「あれについてどう思うかね?」とか聞いている。白眼視しながら、興味津々。馬鹿にしてるくせに、囚われている。
 この、「皿倉学説」と採銅先生の関係は、そのままかれの愛人河田喜美子と先生の関係にもどこか似た感じになっている。たった数年前、自宅を抜けていっしょになったはずの愛人のことをいまやちっとも愛していない。軽蔑している。疎んじてもいる。先生がひろう貴美子のセリフは、お惣菜の物価が上がっただのといった愚痴か、帰るなりに勝手に茶を沸かすのは威厳に欠けるだのとかいう馬鹿みたいな小言ばかりである。こんなん、愛してるわけないだろ。
 地の文が書いたことだからといって、主人公の心情を書き表していないとは言えない。特に小説というものは、地の文が事実を取捨選択するのすら、ある意図が発生する。先生は喜美子のことなんかうぜえなとしか思ってなくて、ろくにみてもいないに違いない、とわかる。かわいいとことか、愛すべきとこは全然感受していない。そういう地の文。その上、はっきり「あの女に遭わなければよかった」とか言っている。「遭う」という字は災難に遭遇した時とかに使う漢字であろう。


 白眼視している愛人、田舎医師の論文。結びつかないような二つを「五十匹の猿」という、論文の内部の文言がつなぎとめている。「五十匹の猿」とは皿倉が学説を提唱するにあたって実験で脳を開いて「潰した」猿たちのことである。これが奇妙に、しかし巧妙かつ不自然でなく、リフレインされる。採銅先生は愛人と話している途中で一見脈絡もなくこのフレーズを思い出す。学説を気楽に、他の教授連と検証する時にも度々「猿を五十匹も潰したそうですよ」という。「でもまあ、猿ですしな」「人間とは脳の構造が違いますし」云々。
 別に謎を秘めているわけでもなんでもない。皿倉論文は出来の悪い、机上の空論や学説とは言えぬ突飛な飛躍をする駄文で、五十匹の猿はそこに必然として描かれてある犠牲動物にすぎない。すぎないはずなのだ。どこが不気味とも言えない。不気味といえば猿の脳を開いている田舎医師のビジョンはなかなか不気味では、ある。
 五十匹の猿。
 他の場所では明晰を貫いている清張が、示唆ばかりをして明言は避ける、「明白な事実」が読者の眼前に現れた瞬間、ぞっとする。
 ラストのオチもその「暗示された真実」と共鳴して、不気味に響く。
 めちゃ良い短編。読んで。

(以下次号)