日月星辰ブログ

Vive hodie.

感想「街とその不確かな壁」(ねたばれ)

少し前に読み終わったので書いておく。ほぼ自分のための備忘録である。

ねたばれ。

 

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」とか、近年の作品だと「騎士団長殺し」とか、「地底の穴を越えるどこかで気を失って、目を覚ますと別の世界にいる」の集大成のような作品だった。

ねじまき鳥クロニクル」あたりからちょくちょく、村上春樹作品は読んでいる。なぜか知らんが村上のファンは本読みコミュニティからはすかしてる、ミーハーな連中だと思われているような気がする。私は非難するほうではなく、どちらかといえばされる方だ。初日に本屋の前に行列するほどの熱心なファンではないが、まあフラットな視点で見られたら「似たようなもん」と思われているのだろうな、と思うとそういう視点を作った誰かに対して無性に腹が立つ。

 村上春樹は、少なくとも小説家としては非常に真摯な作家だと思う。あたりまえだろ。村上春樹を捕まえて今さらそんな話もない。それほど真摯でもない人物が世界的に人気の小説を何万部も売ってたまるか。他のいろいろな価値はとりあえずおいておいて、世俗的な価値基準で売れたの売れないだのというのはいかにも下品だが、逆にいうと、世俗だってそう簡単なものでもないだろう。そこまで「世間」に絶望してないよ。

 なかなかノーベル賞がもらえなかろうが、それがいずこに理由があろうが、偉大な作家であることには間違いないし、卓越した日本語の使い手である——と思っている。そんなに長々と言い訳を書き連ねなくたっていいじゃないか。なぜカズオイシグロとかガルシア・マルケスだとしれっと堂々としており、村上春樹だといやあそのう、みたいな感じになってしまうのは嫌すぎる。

 

 死と生との間というか、それらのいずれともつながらないところに、「街」がある。そこでは皆、作品によって少しずつニュアンスに違いはあるが、おおむね質素な暮らしをしている(別の作品では色ももようもない服を着たりしている)。そこには本はない。身の回りのものには一切の「メッセージ」が描かれていない。ただ、厳然とした社会のルールは存在しているし、漠然と「上の者」の気配はある。

 どこか、古い時代の黄泉のイメージだったり、あるいはひとの内面の暗喩のようでもあるこの街は、現実と地続きのようで決定的に地続きではない。ただ終始、作者はこれを「街」とはいうが、「あの世界」というようには言わないように気をつけている。「街」「街」であり、世界と称されるものは「外の世界」のみである。よって「街」異世界ではないが、地理的にどこかに存在するわけではないので物理的に行くことは叶わず、そのくせひょんなことでいつのまにか来てしまう街である。

 似たような道具立てで、物理的な人間が他人の無意識の「世界」に閉じ込められてしまう小説があった。この作品の場合はそういうことのようでいて、そういうことではなさそうである。種明かしというか、その辺の設定の明示は最後まで避けられている。ここのところが作品全体をなんとなく浮世離れした、上品なテイストに抑えている。「この世界はアレでこれで」「こういう設定で」「地図はこうで」と言い出すとライトノベルになってしまう。そういうライトノベルには今やあまりに手垢がつきすぎた。

現実にそのような世界を構築することはできなくもないとおもう。その手の実践が部屋単位だと「断捨離」に代表されるミニマリスト主義に落ち着く気がする。なんとなく私たちはそういう環境に憧れてもいる。お菓子には「サクサク新製法!」とか書いてあり、洗剤には「ミクロな繊維までスッキリ」とか書いてある。Tシャツには「アイラブニューヨーク」とか書いてあって、スマホからはのべつに文字情報が流れてくる。山に行けば「登山道」と書いてあり、川には「遊泳禁止」と書いてあるのだ。情報がどこまでいっても人間を追いかけてくる。人間は知らず知らずのうちにその喧騒に取り巻かれている。村上春樹はそれのストレスをよく知っていて、意図的に静謐な世界を淡々と描く。喧騒への批判精神は、居丈高になることなく、それとなく示唆される程度の小声で、「そういえばなんとなく」な居心地の良さとして描かれている。

 いままではこの静謐な街は、死後の世界なのではないかと私は考えていた。例えばアイヌの民話なんかで描かれる、川の向こうにあって、普通の人が行くべきあの世みたいなもの。が、今回読了して、どうやら作者は死は死で別物を想定しているらしいことがわかった。

 「人の死」が描かれていたのは第二部だけだ。子易さんと、子易さんの家族が死者として登場する。子易さんは街にはいかず、幽霊として出現はするが出現先はあくまで「この世界——外界」である。「街」は死という厳然たる現実とは折り合わないようである。日常を超越して浮いているのに、中には単純化した刺激のない日常が詰まっている。

 それが何を表しているのか? 物語にはいろんな作品があり、「これの暗喩されたものはなんだ」とか考えさせられるものと、そういう考察を拒絶してくるものがある。この作品は間違いなく後者で、読んだ人は「街とは何か」とかまず語りたくなってくるが、そういう気分のうちにわーっと語るとなんだか気恥ずかしいことを言いそうな気がする。開かれているようで実は、作品はそういう読者の、意味づけをすぐ求めてしまう本能からそっぽを向いている。なんらかの意味づけを求めた読者は肩透かしを喰らい、自分なりの腰の落ち着け方をおろおろさがすが、座るところは容易に見つからない。「いかような解釈でも」みたいに開いているようで、これはこのまま受け入れるしかない、というような冷たさもある。これはでも、この作家が一貫して持ってる空気だったような気がする。「ま そのまま受け入れてもらえば」って感じ。そのくせ、読了直後はなんだかあったかい気持ちになってしまうのは、語りがあくまで紳士的だからか。

 今回今までに読んだ作品と明らかに違うなと思ったのは、「ワタナベノボル」ポジションの人物たちがみんな割と「いい人」に描かれてたことと、女性が容易にセクシャルパートナーにならなかったところあたり。ようやく「ワタナベノボル」的な人々と作者は和解したのか。女性の描き方は一部読者に反発される要因の一つだったし、そこの基本は変わっていないんだけども、主人公が簡単に「彼女」に踏み込めなくなったのはちょっと意外だった。どういう意図でそうしたのか。

 結局私は作者の、一貫して「醜いものは描きたくない」というスタンスに信頼を置いている。実際、村上作品で小説としての美しさの点で「うわぁ」と残念に思ったことはないから。とはいえ今まではまだわずかな何かがあったのが、今回の作品は完璧に美しかった。妥協点が全くないわけじゃないけど、「おれはこれは描くがこれは描きたくないからな」という線引きをありありと感じるんだわ。いくらリアリティによっていても、絶対に描きたくないものぐらいあるし、それは描かないし描かなくてもいい、というのは、読む方としても大変心強いものなのです。たとえその美的センスが、一部自分と合わなかろうが。