日月星辰ブログ

Vive hodie.

映画感想:「THE FIRST SLAM DUNK」(ネタバレ)

 「スラム」も「ダンク」もスラスラとスペリングできるようになって3日目ぐらいだ。AかUか、RかLか あやふやなんである。なんなら3日前には間違えてスペリングしている。情けない。原作については「ドンピシャの現役ファン世代」のはずだが、その頃は「ジョジョの奇妙な冒険」に夢中だったので、今ひとつまじめに読んでいなかった。

 

 桜木花道を主人公とする、高校生のバスケ部活マンガということと、桜木花道はかつて不良で、晴子さんというお兄さんがバスケ部主将であるヒロインと出会うことで気まぐれにバスケに入門し、チームの要となるまでを描いた物語…であるらしい、というくらいしか前提知識はない。うっすらと深津くんだの、三井だの、流川楓だのという人々が、隣の高校の生徒ぐらいの知識で「そういやいたっけな」という印象を残しているに過ぎない。覚えている度では1990年台の中日ドラゴンズの選手程度のあやふや度である。立浪、現役だったよね。

 桜木花道も、三井も、流川楓も、宮城リョータも、「あの頃」高校生だったなら、今はすっかり現役を引退していることだろう。なんてこった。スポーツ用品メーカーの部長とか、オリンピック代表の監督とか、アメリカに渡った組ならば向こうの監督とかコーチとか、そういうのになって、まだ活躍しているかもしれない。

 そういうふうに現実とクロスオーバーさせる想像力も働かないぐらいには、親しんでいなかったんだ、スラムダンクには。

 以下、ネタバレ。

 

 それでもこの映画を見に行こうと思ったのには、まずは周囲の信頼できるお友達が大絶賛していたからである。もっとありていにいえば話題について行きたい。電車に乗っている時に両サイドに座っている人に頭飛び越えて盛り上がられたのは地味にきつかった。それだけなら見にいくものか、と思ったが、それとは全く関係ない、別のすべてに信頼を置いている友達がやっぱり大絶賛していたので、一度心を空っぽにして見に行った。前者の記憶だけならおそらく、まっさらな感想は抱けなかったに違いない。

 原作はさっきも朧げな記憶に書いた通り、桜木花道の物語だ。「成長物語」要素が強い。しかし映画は大胆にストーリーを宮城リョータという沖縄から湘南へ転校してきた一人の少年に視点を絞り、その複雑な過程環境と、母親の心情を丁寧に描くことで、邦画らしい細やかなストーリーに再構成されている。

「伝説の山王戦」(らしい)を主軸におき、その前夜と試合に時間軸を絞り込み、40分の「リアルな試合時間」の合間合間に、選手たちが「そこに至るまでの道のり」をそれぞれ、刻み込んでいく。原作を読んでいれば「あの時のあのシーン」が効果的に引用され、知らなくっても「この子の自己認識はこう」「だからこういうふうに振る舞っている」というのがきちんと想像できるように、描かれている。

 おそらくは、リアルな中高生当時に夢中になったファンの中心は40代男女、ちょうど宮城リョータのお母さんぐらいだ。お母さんの心に寄り添うようなストーリーラインがその「ターゲット層」に受けようとして設定されているかどうかはわからないが、多分、見てる人たちはどっぷりかつての青春を思い出し、宮城リョータなり、ゴリなり、桜木花道なりに感情移入する。男でも女でも。誰しもかつて17歳だった。フィクションのフィルターを通れば、いつだってその頃に戻れるものだ。

 何度か泣けた。ゴリが自分の才能をなんとかして「この場で」開花させようと空回りしているシーンで、小物の先輩に「うざい」と言われながらもじっと耐えているさまとか、それに寄り添う小暮くんとか、不在の兄の影にずっと苛まれてきた宮城リョータと三井の複雑な絆だとか、そういうものに泣けてしょうがなかった。ゴリとともに悔しがり、リョータとともに寂しがる、という感じではない。そういうキラキラしたものが等しく、いずれも眩し過ぎて泣いた。自分はもうそういう純粋さを目指せないな〜、などという年寄りぶりっこで悲しいのではなくて、そういうものの尊さがこの地上に存在することを久しく認識していなかったことが勿体無くて、泣いた。どんなにシニカルに振る舞って見せようとも、どの子もこの子も根っこの部分は透明で強靭な精神でできている。すかしたところなど一つもない。優れたプレイヤーが陥る奢りを汚れとして恐れ、震えながら対峙している素晴らしいプレイヤーたちだ。桜木花道が「天才」と嘯いても、宮城リョータが皮肉に眉を吊り上げても、彼らはずっと、自分の純粋性が「驕り」で穢れることを恐れているようにすら見えるのだ。根拠はどこにある、と言われても説明するのが難しいけど。

 ひとつ、私がそう考えた根拠らしいと思われるシーンがある。山王のエース・沢北が神社にお参りするシーン。頂点を極めているはずの沢北は「僕に足りない経験をください」というのだ。僕に足りない経験をください? おまえどこまできらきらしとんの。尊すぎる。そのままでいてくれ。

 負けた沢北はちらりとお参りを後悔したのか? してないんじゃないか、と思う。わーっと泣いたとしても、それが悔し涙だとしても、きっとこころのどこかでほっとしている。「必要なものを教えてくれてありがとう」と思っている ——と思う。

 井上雄彦先生は当時「人気絶頂」の漫画家であったはずだ。驕りや慢心で創作の魂が濁るような気配を感じたこともあったのかもしれない。だからこそ、それらと無縁の高潔な少年たちをここまで真摯に描かれたのではないか、なんて考えてしまった。

 

 勝敗を決せられてしまう競技というものを「残酷だ」という人もいる。映画の中か、別の文脈か、(映画の中でいうとしたら、リョータの母かオーディエンスか、どっちかだと思うけど)そういうセリフも出てきた気がする。が、私がこの作品を見た後で思い出したのは変なかんじだが「蒼天航路」の曹操の台詞である。「呂布は絶世の美女だ 抜群の姿形をしており 気まぐれで聞き分けがなく ひたむきで傲慢 自分の美しさを他と比較する気持ちすらない」——本当に美しい人は、他と比較する気持ちすら抱かない。この名言をはからずも思い出したのは、彼らのアスリートとしてのありようの純粋性、向上を目指す「なりふりの構わなさ」、「動機の純粋さ」……そんなものが私の「もっとも純粋な力」の象徴としての呂布(と、それをそう評した曹操)の台詞と瞬時のうちに共鳴してしまったのである。絶世の美女は、他の女と自分を比較した途端に「絶世の美女」ではなくなってしまう。言ってみれば、頂点の帝王学だ。絶世のアスリートもまた、そういうものなのかもしれない。

安西先生のことも書きたかったけど、書けなくなってしまった。安西先生もまた、「絶世のアスリート」でありつづける。彼の現役時代、「鬼監督」時代も見てみたかった)