日月星辰ブログ

Vive hodie.

映画感想:ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ちょっと前に見た上に一度しか見ていないので、記憶が曖昧な部分があるかもしれない。ネタバレ前提。

 

原作小説があるというので、物語の結末やキャラクター造形についてはすべて監督の創意というわけではないのだろうが、いくらなんでもみんな傷つきやすくて立ち直りにくすぎやしないか? と思った。脇役はそうでもないかもしれないけど、登場人物はものすごく壊れやすくて、心に深い傷を絶えず負っている。そのせいかなんでもない日常のシーンを写していても何かひどいことが起こりそうな緊張感がどこかに絶えず影を差していて、それに終始はらはらした。見ている間はみんな幸せになってほしいと思ったし、どうしてこの世の中は理不尽なんだろうねえ、と主人公と共に泣きそうになったが、私はいったい、誰に感情移入して「泣きそうに」なったのだろう。

 どうやら自分は「ぬいぐるみ」に感情移入しているぞ、としばらくしてから気付いた。

 映画の中でも、「ぬいぐるみ視点」とでもいうかんじの、ぬいぐるみのガラスの目を通して写したようなカットが序盤と終盤に出てくる。中盤にも一回あったような気がする。ぬいぐるみは見ているだけだ。同情もしていないし悲しんでもいない。そのありようが悲壮でなんか泣けた。あまりにも面倒臭く、自分勝手な人間という生き物に対比して、どこまでも「もの」の静謐さを保っているぬいたち。

 私はぬいぐるみ「と」しゃべったことはないが、ぬいぐるみにはしょっちゅう話しかけている。登場人物の麦戸はぬいぐるみからの「解答」を得たようなことを言う。ということは対話が成立している。だまってじっと聞いているのではないらしい。「と」としたのはそう言うことだろうと思う。

 そうなってくると「やさしい」が少し皮肉を帯びてもくる。ほんとうに彼らは優しいのか。言葉を発することで自分も他人も傷つけることを自覚してしまった七森は家にこもってしまう。「争いがやまないから、誰かが毎日傷ついている」というようなことをサークルの長老格っぽい鱈山が言っていた。鱈山がその「争い」に自分は無関係だと思っているのかはわからない。何かのきっかけで「自分もそこに参加してしまっていること」を知って、ぬいぐるみと話すようになったのかもしれない。部が作った掟には「お互いがぬいぐるみと喋っている内容を聞かない」というルールがあった。単に「部」というコミュニティを想像するにあたって当然に出てきそうな会則だが、これも読み流すにはひっかかる。誰かが誰かの告白を聞いてしまったことにより、「ぬいサー」にもかつてひどいことがあったんじゃないだろうか。

 あるいは、そんなことはなにもなかったかもしれない。単に想像のしすぎでそういう争いを避けたいがために、経験する前にその道を塞いだ可能性もある。そしてそれがどうももどかしい部の人間関係を表しているようにも思われる。

 本音を語り合うな。言うならぬいと話せ、ということだ。これはよくよく考えるとしんどい話だ。ぬいぐるみはどこまでも物体で、静謐で、心を持たない。彼らに聞いてもらえさえすれば楽になる、などというのはどこまでの重さで絶えられるものなのかわからない。不満や不安を吸い取ってぬいは爆発しない。爆発するのは人間の方だ。

 映画のクライマックスで、麦戸が七森の家に言って、お互いに思っていることをぶつけ合う。そこだけ見ればちょっと風変わりだけど普通の青春映画みたいにも見える。ただし、彼らはお互いに対して思いをぶつけ合わない。自分が理不尽だと思っている社会へ対する思いをぶつけ合っているだけだ。目の前の人は自分のもやもやの原因ではない。ドラマとして見るとなんだかおかしな感じがするが、現実にはわりとよくあることかもしれない。「こんなひどいことがあったんだよ」と言い合って、不快を共有しあって、「解決したいね」という・・・というのは、案外と老若男女おこなっているものではなかろうか。

七森と麦戸のふたりが「つらいね」と言い合う仮想敵が「現代社会」だというのはちょっともう少しこう・・・と思った。現代社会じゃなくても、だぶん人間の群れでやっていく間はずっと、自分の内面の扉を開けたらそこはもう修羅の国である。われわれは多かれ少なかれ、ナガノ先生の自画像のくまのように、「つっつっつっ」とミルクの飴を舐めながらBABYになりたいことがある。

そして、こころゆくまでBABYを堪能したら、何事もなかったかのように「ざっざっざっ」とまた戦場に戻っていく。そうじゃなければ確かに生きやすいが、そういう世の中だもの。仕方ねえじゃんか。