ようやく見た。
庵野秀明展、忘れることなき最終日に駆け込みで行って、残り少なめの物販で「シン・仮面ライダー」のパーカーを買った。なんか、アパレルが欲しい気分だったのだ。普段は展覧会でアパレルを買うことはないが、なんとなく、「これを逃したらこのデザインのパーカーはもう手に入らないんじゃないか」と思ったからである。「シン・ゴジラ」は黒、「シン・ウルトラマン」は白、そして「シン・仮面ライダー」はダークグリーン。
地色で数秒迷って、「シン・仮面ライダー」を買うことにした。黒や白はいかにも芸がない。緑に赤い文字。仮面ライダーカラー。いいじゃん。
一冬と若干寒い春いっぱい、何度もお世話になった。
だからといって個人的に「仮面ライダー」にも、「シン・仮面ライダー」にも特別な思い入れはない。あのパーカーを着ていると「ファンなの?」と聞かれることがたまにある。庵野のファンなの?「シン」のファンなの?「仮面ライダー」のファンなの? いずれでもないわ。
パーカー自体の着心地はいい。そう聞かれるたびに「別に」と答えるのも全然苦にならないから構わない。質問に意地悪な裏の意味があってもなくても、どっちでもいいし。
でも、せっかくこのパーカーを持っているからには見にいく時ぐらい着ていけばよかった、と思ってはいる。それも初日に、気合を入れて。しかしそうはしなかった。多分資格試験が落ち着くまでは他のことはしたくなかったしできなかったからである。
というわけで、資格(知的財産管理技能士)の合格を見届けてから、見に行った。一人だったので、ぬいと一緒に見た。レイトショーだったのでちょっと隣の人が嫌な人だったらどうしようと思っていたが、ぬいを膝に座らせていると思った以上に落ち着く。隣が上映中にスマホ見たりしてても、寛大な心で許すことができる。
というわけで、一人分の料金でぬいと私の二人分、見たことになる。ぬいは入場料0円だと思うので、許していただきたい。
以下ネタバレ。
「仮面ライダー」というのはもともと(「ウルトラマン」シリーズと同様)、テレビシリーズで見せるために作られたコンテンツである——と認識している。毎週毎週、新しい「怪人」が登場し、主人公(仮面ライダー)は休みなく彼らと対峙し、戦い、勝利する。問題提起、実践、そして解決。PDCAとかいうんだったっけ。
不夜城の警察のように、彼らに休みはない。「迫るショッカー 黒い影」というわけだ。
私の前提知識といえば、仮面ライダー=バッタオーグが、もともとは「悪の軍団」ショッカーと同根の目的もしくは技術で作られたということぐらいである。あとは多少は、——それがテレビシリーズだったこととか、主演が藤岡弘だったこととか、ぐらいなものだ。
それでも、作品を見れば、だいたい「オリジナルはこんなかんじの作品だったんじゃないか」と想像ができる。オリジナルをろくに見なくてもその横顔が透けて見える作品だった。
パンフレットによれば、庵野秀明は「本作は52年前の「仮面ライダー」を構成していた東映生田スタジオの作り出したテレビシリーズや劇場映画、石ノ森章太郎先生のテレビシリーズを補完すべく描かれた漫画等を分析・検証・変換・再構成することで新たな劇場映画として形にすることを目指しました」と言っている。オリジナリティのふわっとした注入ではなく、意図的に「原作」を透けて見えさせ、さらにいえば「原作より原作らしく」描こう——と思っていたのではないか、と思った。
細部には多少の思い切った改変(というか、時代や視聴者に合わせた「エクスキュース」のようなもの)が施されているのだろう、というところもあるし(国家機関の描写や、主人公の内面、倫理基準など)、一方で意図的に「俺っぽさ」をはにかみながら出しているように感じるところもあった。(ハチオーグやサソリオーグの人物造形とか)なぜか「シン」シリーズで毎度出てくる登場人物たちの体臭の悩みは、私は前者の要素だと勝手に思っている。監督の体臭フェチの表出ではなく、ごく自然な、「生身の人間だもの、気になるじゃんね」というような、「リアリティ」側の言い訳だ。自ら修羅場に身を浸して、何日も家に帰らずにトレス台に向き合った人間の実感としての「くさくなる」なのではないか、と。
それよりも、「るりるり」とか、「くるくる回る蠍の尻尾」とか、「不自然なハイテンションの美女」とかのほうが、フェティッシュといえばフェティッシュじゃないか。悪ノリっていうか、キッチュな美意識というか。
先に引用した文章の中でもそう書かれているが、元が劇場映画だった「ゴジラ」の方がわりとすんなりと映画に移行しているような気はしていて、その美しいまとまりが私も好きだ。長く続く連載物を、どんなに素敵な手際でやられても一つにぎゅっと縮められるのはどうも窮屈で好きではない。私も「シン・ゴジラ」が一番作品としては鑑賞しやすく美しかったと思っているが、テーマに対して作り手が一番内省的なのかもしれない、と思ったのはこの「シン・仮面ライダー」だった。個人的な体験や心情の描写がじっくり描かれ、「オーグ」たちとの戦いはどれもどこか、夢の中の出来事のよう。一番、現実に隣り合った戦いでありながら、最も幻想的。ゴジラやウルトラマンにはまだ社会があったが、仮面ライダーと社会との関わりはどこまでも希薄である。黒服の、わけ知り顔の二人だけが、「政府の人間だ」と自称して二人に接触する。その人はどこかで内閣官房長官、と呼ばれていた人に似ており、あるいは宇宙人と融合した元政府機関の人間に似ている。唯一の俗世の人間でさえ、ゆめのなかの人物のようである。
そういうお膳立ての上に最後に、「蝶のオーグ」との精神レベルでの戦いのような「最終決戦」が導かれる。当然、その死闘もごくひっそりとした、夢のような閉ざされた部屋の中で、内省的に行われるばかりである。他の誰も騒がないし、誰も気づかない。その結果消え去った三人の男女は、初めから「一文字隼人」の夢だったのか、とすら思えてくる。
映画は「PG12」に指定されている。「ライダーキック」で潰された敵の肉体からはべっとりと血が湧き出るが、それもまた、どこか非現実的だ。スプラッタというよりは、それもやはり、夢みたい。精神の見ている「血」なのかもしれない。そういう世界で懸命に理屈づけされる「ショッカー」の正式名称なんて、もう割と、どうでもよくなっている。ゴジラやウルトラマンとはまた別の「現実との距離の取り方」だなあ、と思う。