日月星辰ブログ

Vive hodie.

映画感想:「RUMB」(ネタバレ)

お久しぶりです。しばらく間が開きました。多分これからも書いたり書かなかったりするでしょうが、最近Twitterの様子がどんどんおかしくなっていくので、そのうちあちらを見捨ててこちらに居座ることになるかもしれません。しかし落ち着き場所は一つに絞らず、捨てず、なるべく広く、というのが私のモットーなので、こっちはこっち、あっちはあっちで適当にやっていくつもり。不可抗力で滅びるならば、それはそれ。

 

はてなとのお付き合いもかれこれ20年以上にはなるのではないかしら。少なくとも、Twitterよりは長いです。ブログサービスが隆盛を極めた頃に参入し、そのまえはさるさる日記などで書いていたのだから、長いはずです。そんなはてながさまざまなことはあったとはいえ、続いているのはありがたいことです。さて。

 

今回久しぶりにはてなのIDにログインをし、「新規投稿」を試みたのは、表題の通りです。映画「RUMB」が配信解禁となり、見た頃のことを思い出して、なんか書き残しておこう、と思って筆を取りました。いやキーボードのデフォルトポジションに指を置いている次第です。

 

見たのはたしか、去年の9月ごろなので細部の記憶はあやふやなので、また配信で見直したら新しい発見があるかもしれません。配信なら自由に好きなところで止めて、セリフや映像をメモしたりしながらみられるので、「いったいどこで自分がそうおもったのか」もより自覚的になりそうなのですが、——なにはともあれ、初見の感想を今頃書きます。

 以下、ネタバレありなのでワンクッションたたみ。

 

 

事前の紹介のされ方などから、「ホラーか、少なくともスリラーなのだろう」と思って見に行ったが、正直、私はあまりどころかぜんぜん怖くなかった。あの恐怖が身に迫るには、私はあまりに都市生活者すぎる。周囲に自分を脅かすほどの大きさの動物もいないし、すぐ壁を隔てた隣に全く顔も知らない他者が住んでいて、分刻みにくる電車に乗って、狭い会社に通っているが、その会社にだって歩いて行けないこともない。そういう環境に暮らしていてはあまり迫ってこない恐怖が、あの映画の描いている恐怖なんじゃないか、と。もし、恐怖を描いているとすれば。

 だだっ広い牧草地帯に二人の夫婦が暮らしている。年頃は30代か、40代くらい。二人きりで、広い牧場で羊を飼っている。一つの小屋に羊は30頭くらいいるのかな。あまりたくさんという感じではないけど、羊の方が、二人きりの人間より多い。

 夫婦の暮らしぶりはどちらかというと淡々としてて、変わり映えはない。トラクターの調子が悪いから直さないととかいう会話をしたりしている。夫婦仲も、格別に良い感じもなく、悪い感じもない。羊もまあまあ管理されているように見える。そもそも私は北欧での牧場暮らしというものがどういう雰囲気で営まれているものかよく知らないので、二人きりで広大な土地のど真ん中に家を構えることがどれぐらい心細いのかピンときていないところがある。

 羊たちは(おそらく)演出の意図ですこしばかり不穏に撮られているが——羊だしなあ。暗闇で目を光らせたりしても、なんかこう、ユーモラスに感じてしまう。ある程度のおおきさの蹄のある動物の怖さも、私はよく知らない(牛や馬なんかは「猛獣」だそうだが)。

 でも、どうやら時代は現代で、車やトラクターがあっても、二人の世界は外界とはゆるやかに遮断されているように見える。滅多に人は通りかからず、夫婦はお互いだけが唯一の日常顔を合わせる人間で、あとの生きて動くものはほぼ羊。でも、それをずっと当たり前にして生きてきた人々に対して、私はずっとある種の信頼感を持っていた。いまさら急に精神のバランスを壊したり、何某かのトラブルでおろおろしたりしないだろう、と。

 たいがいのトラブルに正しく対処できる(と自分が信じている)人間を見ている分には、そこには怖さは感じない。だから、アダが生まれてきてもさっさと「人間扱い」し出した二人のことを正直あまり「異様だ」とは思わなかった。あの、羊頭人身の赤ん坊を異形だ、とかいって殺しちゃう方が逆に悍ましく感じたかもしれない。

 人間と羊の真ん中に立っている「アダ」を監督はどうしたいんだろう? ひいては視聴者にどう見せたいのか? そんなメタな視点じゃなくても、そもそも夫婦はどう扱うのが正しいと、我々は思うのか。

 そもそもそこに正しさはあるのか。どうしたって「どっかは正しいけど、何かは間違っている」のではないか。

 人間の格好をした羊を、まさか羊扱いできないだろう、裸の幼児が羊小屋に放って置かれて、羊のおっぱいを吸っているとすれば、それはグロテスクなのか、あるいはそっちのほうが「自然」なのか? 逆にあたかも自分が産んだように引き取った女性はイカれてるのか??

 そこにもしかしたら問題意識があるのかもしれないが、この問題意識、いったいどこに着陸するんだ?? 当てもなくぶち上がったロケットなんじゃないのか? そんなことに混乱するぐらいなら、そもそもアダの父親は誰なんだよ?! というほうがずっと卑近で、それゆえ下世話な問いであり、それもまあ、大いに気になるわけでさ。でもそっちのほうは割と数分ぐらいでまず「夫は白」だということがわかる。というか、取り上げた段階で「黒」ならそれこそ彼がアダを殺しにかかるだろうが、そうはしない。それどころか彼は、アダがいなくなると心配して必死で探すんだよ。白だよな。

 とか思っていたら外から「夫の弟」がやってくる。これがまた程よくチンピラで、怪しい。この余所者がどうして召喚されたのか、しばらくは戸惑う。何か問題を起こすのかと思いきや、夫婦と飲んでワイワイ騒いで、ちょっと奥さんを誘惑するが突っぱねられて終わり。特にこれといった問題は起こらない。絶対こいつなんかすると思ったのに。当然アダの父説も白である。彼にもアリバイがある。

 じゃあだれだよ。父。

 

 結末まで語ってしまうと、まあこの「父」がかりそめの羊飼い夫婦の小さな幸せを全部ぶち壊して終わるわけなんだけど、急に外から「これ以上なくアダの父親として適任の父」がまるで天から遣わされたようにやってきてわーっと「おろかなにんげんども」を消し飛ばしにかかるこの流れは…「え…」って劇場で凍りつきました。怖くない。むしろ、「ちょっとまて」と思った。「それでええんかい」と。確かにアダはこのままではどこにも着地しない。作品がまず投げかけた命題ともに、どこともわからぬ宇宙の彼方にぶちあげられたまま、どっかに飛んでいくしかない。でももう、視聴者的には半分ぐらい過ぎてくるとアダの幸せを願っているんですよ。「長くは生きられずに死んじゃう」とか、「誰かに殺される」とか「見せものにされて不幸な人生を送る」なんていう結末は望んじゃいない。またさー、アダ、かわいいのよ。そう。かわいい。ホラー映画にするには決定的な欠点というか、弱点なのだ。可愛くなっちゃってるんだわ。

 とはいえ。とはいえですよ。

 そんな「居場所の作り方」はどうかと思うんですよ。「なかまがいたんだ、なかまのところにかえろう」てかぐや姫じゃないんだから。そっちが解決するためにこっちは「報い」を受けるわけだが、それもまあせいぜい、「おまえが殺したのと同じものを俺 殺す」ですからね…慈悲深くないか…。もっとメガトン級の報いが降ってくるんかと思ったら割とそうでもないのね。

 私としてはアダの扱いについて「他にどうすりゃよかったんよ」という気持ちが強かった。勝手にひとんちのひつじを傷物にして、託児した上にいいかんじに育ったら取り返しにくる? はよこいよ…あんたが生まれた翌日とかにちゃんときてればだよ、なんも起こらなかったんだぞお前。ついでにみそめた羊も連れてけ。それで三人で仲良く暮らしたらよかったのに。映画にはならないけど。すくなくとも4、5年は放っておいてそりゃないだろ。そんな激烈な愛情を持っているなら早く来い。もう。愚かな人間が愚かなのはわかったから(??)。

 いっこ完全気の毒な子がいるとすれば、忠実な牧羊犬ちゃんが死にます。彼はなんもしてないのに、多分「忠実な目」として有能すぎたので消されたんだと思う…。犬が死ぬんだよな、この映画…。

 しかしこう、こうして一つ屋根の下(というか、すぐそばの建物)で自分達より多くの「別の生き物」を飼って暮らしていくことそのものが、もしこういう「恐怖」を生むとすれば、人間って因果な生き物だなあなどとも思いました。古代の神話なんかだと、人間と別の生き物の婚姻譚は多く見つかるが、それはつまり、こういう、「他の種の生き物との距離の近さ」が生み出す本能的な不安によるところが大きいのかもな、とかも思った。異種との混血児などは神の使いでなければ忌み児には違いなく、もっとそういう可能性や恐怖が肌に迫っていたころの寓話にちかいなにかだと思った。この映画。