ゴールデンカムイの主軸を担う人々の社会的属性について考えていた。
まずは、アイヌ。アシリパさんをはじめとした、おそらく本作で一番「キャッチー」な属性の人々である。主に政治的な要因で、2020年近辺に動きがあったのも、皮肉なことに追い風となった。なぜ「皮肉なことに」と言いたくなるのかはのちに書く。
つぎに、武士である。なぜ、土方歳三という人物が本作に意図的に描き込まれているのかを考える時に「武士」という属性は外せない。本来であれば永倉新八のように隠棲しているか、函館か上野かで死ぬか、——政治の中枢にのさばるか、という、作品内の時代設定であってもすでに過去の遺物である。
それから、軍人だ。鶴見中尉をはじめとした、軍内でのごたごたもまた、本作の重要なキーになる。
最後に、囚人である。網走監獄に収監されている囚人二十四人の人生は、本作の通奏低音と言っても良い。主旋律ではない気がする。
彼らは囚人を除いて——現代の日本社会で透明化された、あるいは滅ぼされた人々である。
囚人というのはどんな時代でも絶対に消えて無くならない。人類史から絶対に消えて無くならないのは「娼婦だ」と荒木飛呂彦先生がどこかで書いていたが(ジョジョのコミックスの折り返しだったっけか)、囚人もそうだ。しかし囚人というのは本来の社会的属性からドロップアウトした人々とも言えるので、純粋武士や純粋軍人のような「純粋囚人」なんて人はいない。いないはずである。
アイヌについてはずっと断続的に迫害・無視とともに復興・注目があった。それが珍しもの見たさであっても、また北海道外に出てしまうと多くの日本人にとっては日常から消え去ってしまうものとしても、同化に対する抵抗が続いていた。現代的な倫理観で言えば積極的な滅ぼされる言われもない、というのも、彼らが生き残れた理由としては大きい。倫理的に言えば他者を殺してはならないのと同様、他の文化を滅ぼして良い言われなどない。あるはずもない。
武士と軍人は少し、勝手が違う。
武士は幕末には形骸化していたとはいえ、常に武器を腰に吊り下げた支配階級である。かつてはどこの国にも似たようなモノがいたはずが、およそ近代民主主義に合わずに抹殺されていった。いわゆる「武家」は今でも脈々と残っているだろうが、彼らがいわゆる「武士」かと言われると違う気がする。
明治維新とともに事実上滅び、その後もしばらくは多少の抵抗があったものの戦後にはほぼいなくなった。
軍人もまた、昔の日本には確かにいたが、いまはどこを探してもいないタイプの人々であろう。自衛隊員が軍人か、というと似て非なるモノのような気がする。ひとまずは法律上は自衛隊員を軍人といってはまずい。日本は軍隊を持っていないことになっている。
軍人の滅亡のタイミングは第二次世界大戦の敗戦だろう。ポツダム宣言の受諾とともに、彼らは滅びた。
今の日本の多くの人間にとって、その存在が「ぴんとこない」人々、透明化されたかあるいは滅びていった人々が、自らを利するために熾烈に争う漫画が、ゴールデンカムイなのだ。
なんとなく、「ドン・キホーテ」に似ている。中世騎士ロマンスが古びてしまった頃にセルバンテスが描いた、中世騎士ロマンスのパロディ。まだ作中時代設定が明治時代なので完全なる笑い話にはなっていないが、どんなにハードな展開になっても作者がギャグを入れたがるのは、ひょっとするとあの作品が「ドン・キホーテ」だから、なのかもしれない、と思った。
「ドン・キホーテ」も出版当初は「滑稽本」として超大人気だったそうである。それが200年以上の時を経て、バフチンによって「カーニバル文学の大傑作」になってしまった。
時間ができたらトックリと細部を詰めたい。