日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書日記:「サンクト・ペテルブルグ」(小町文雄/中公新書)ロシア皇帝暗殺事件があったあの街はどんな街だったのか

ゴールデンカムイにはまってから、アイヌ文化関連に興味が出た、という人は多いだろう。私も御多分に洩れずその口で、北海道には何回か行ったし、その度にアイヌ関連の展示がある博物館に行ったりした。本州でもアイヌ関連の展示がある場合は、足を運ぶようにしている。

 本も関連書籍をぼちぼちと読んでいて、「アイヌ神謡集」や「アイヌ民譚集」のようなエポックメイキングな名著は読んでいる。萱野茂は文章もたくみで(きっと弁もたつ「いい男」だったに違いない)、ウウェペケレを集めた本などはとても読みやすいし解説も面白い。

 ハマりたての頃は白石が好きだったこともあり、まず網走監獄絡みの本を漁っていた。「破獄」はもちろん読んだし、他にも山田風太郎「明治十手架」(犬童四郎助のモデルになった、有馬四郎助を主人公にした物語で、彼が監獄で巡り合った一癖も二癖もある囚人たちが悶着を起こしては有馬を困らせるという面白い話である)「地の果ての獄」(こっちは網走監獄を舞台に、五寸釘の寅吉とその相棒らしい幽霊小僧ってのが出てくる。アイヌのいい男も出てくるし有馬も出てくるのだけれど、どうもラストがしゃんとしなかった気がして、ストーリーの記憶があいまいになっている)も読んだ。

 キロランケが、ロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺事件の実行犯であった、ということがストーリーで明かされたのはずいぶん前だ。多分二年ぐらい前だったと思う。その時は「フーン」くらいの気持ちだった。よくよく考えたらこの事件の詳細をまったく知らない。ロシア革命の前触れ的な事件だったよね、というような、高校世界史(二年ぐらい)の知識で止まっている。そもそも、十月革命とはどれぐらい時期が離れてるんだっけ? 場所はモスクワだっけどこだっけ? 殺されたのはアレクサンドルだっけニコライだっけ、ぐらいの。

 爆殺事件があったのはサンクト・ペテルブルグ、現在は「血の救世主」教会というのが立っている。殺されたのはアレクサンドル二世。先進的な皇帝で、農奴解放令の人。ちなみにニコライ二世はラストエンペラーで、ボリシェビキにひどい扱いを受けた後に惨殺された。彼の末っ子がかの皇女アナスタシア、ということになる。一家惨殺の手を免れて生き延び、どこかで生きていた、という伝説があるあの皇女だ。

 ロシア史の知識はこんな感じであなぽこだらけで、そもそも「ロシア帝国時代のロシア」についてもさほど興味も関心もなかった。個体認識していたのも女帝・エカテリーナ二世ぐらいじゃない? 

 サンクト・ペテルブルグはロシア帝国の始祖・ピョートル大帝が築いた都である。江戸やなんかと同じように、土地として意味はあるものの、もともと街のなかったところに(少し集落ぐらいはあったようだが)皇帝権限で強引に街をおったてた、という由来らしい。

ただ美しいだけではない。不思議な街である。光と陰の両方に満ちたこの街は、幻想都市とも、劇場都市とも、神話都市とも呼ばれる。(中略)

 そもそもロシアの伝統から切り離された、「我が家」ではない人工の町。ヨーロッパ風とは言っても、イタリアでもドイツでもフランスでもない、国籍不明の町。それでいて、まぎれもなくロシア文化の多くを体現している町。 

 

  そう、著者は書いている。「呪われ、嫌われた町」であり「愛された町」であり、「幻想的な町」なのだ。どことなくフィクショナルな、わざとらしい不自然さがあるものらしい。

ペテルブルクは、全体が図面上に描かれた都市計画に沿って作られた人工都市である。

 ともいう。

 なんとなく、ファンタジー小説なんかで出てくる高度に発展してはいるが「世界観」ベースで作り込まれた街並みの感じを想像してしまう。しかし、札幌や小樽だって計画都市といってしまえばそうじゃないのかな? 世界に冠たる、帝国時代は紛れもなく「首都」だったこの町が、そういう姿をとっていることが珍しい、という話なのか。

 東京はどうなるんだ。江戸だって、家康がここいいね、ってみっけて開発した町じゃなかったのだろうか。

 ひとつ、いえることがあるとすれば、サンクト・ペテルブルグの建設には、いささか強引なところがあったらしい。ピョートルはスウェーデンを牽制するために都市の建設を急ぐ必要があったらしい。それで、突貫工事的に建てられた町が砂上の楼閣めいた幻影性をもつ、ということなのかもしれない。

 ドストエフスキーの諸小説の舞台も、ほとんどがこの「ピーテル」ことサンクト・ペテルブルグである、というのも悔しいが初めて知った。いや、「白痴」「未成年」「悪霊」は読んでいるのに気づかなかったのか、という感じだが、特に意識はしなかった。「罪と罰」なんて聖地巡りができるそうじゃんね。そういう視点でもう一度、読み直してみなくてはならない。ドストエフスキーの筆でこそ、この街の幻想性がよくわかるよ、ということなので。どうもさー、ヒロインの家に飛び込んだらお茶沸かして飲んでたとか、お昼のチキンを食べるとか食べないとか、そういう瑣末なところしか覚えてない。興味ない状態で本を読むとしばしばこういうことがおこるから、なんとなくタイトルと著名度だけで本を読むのはこれからやめようと思う。興味がわかないうちは、どうせわかりゃしないのだ。

 

 さて、「ゴールデンカムイ」にもどる。若き日のキロランケ(当時の名前ではユルバルスタタール語で『虎』))はまるでラスコーリニコフみたいに、この街をうろうろうろついていた、ということになる。しかも十五歳。田舎から(彼の述懐によればアムール川流域にあった自分の村?から一人で飛び出してきたらしい。両親とはどういう別れだったのか? いくつの時に村を出たのか? そもそも村だったのか街だったのか、家が「タタール」だということ以外はわかっていない)ラスコーリニコフはいくつの設定だったのだろう。それほど変わらない年頃だったのだろうと思う。

 その、キロランケ=ユルバルスが住んでいたころのサンクト・ペテルブルグの面影は、案外現在も残っているみたいである。19世紀末、1880年代ぐらい、と仮定して、そのあたりのことが書いてあるところは特に注意深く読んだ。

妙に重々しいもの、列柱を配したもの、彫刻を施したもの、装飾の派手なもの、しゃれたバルコニーのあるもの。ピーテルの町の重厚さ、華やかさを示すこれらの建物は、たいてい折衷様式である。なにしろ一九世紀最後の二〇年には、石造建築物が毎年平均二八〇棟新築され、三〇〇の増築(階を高くする)があったのだ。建築ラッシュのピークの年一八九七年には、一年間で約五〇〇棟新築されたという。

  当時はピーテルの人口が急激に増え、アパートというかマンションというか、とにかく人が住む目的で建てられたビルがじゃかじゃか立っていた。「毎年平均280棟」というのはすごい。増築工事も合わせると500件ほどになる。そこここで足場が組まれ、人足がその上を行き交い、槌の音が響き渡っていた、という感じか。

 一九世紀初頭に二〇万だったペテルブルクの人口は、一八五〇年代には約五〇万、一八八〇年代には一〇〇万と急増し、町の様相はすっかり変わった。町中に中・下層、貧困階級の住民があふれ、安アパートが立ちならび、彼らがうごめく市場や屋台や酒場が喧騒をきわめ、常に新築・改築の砂ぼこりが舞っていた。

  キロランケは安アパートの一角に燻りつつ、お腹が減ったらセンナーヤ市場あたりに出て、食材を買ったり、屋台でピロシキを摘んだりして暮らしていた。ある日、カッフェか酒場かで燻っていると、革命組織「人民の意志」の党員に誘われ…という感じだったのだろうか。

 皇帝暗殺は1881年だから、キロランケは設立まもない(1879年)同党に入ったということになる。

 いったい彼はなんのために首都に登ってきたのか。彼の家が知識階級の場合は初めから革命を目的としている場合もあるだろうが、まあ普通のおうちだった場合は、もしかしたら、この建築ラッシュに伴う工員募集にでも応じたのかもしれない。どっちにしても、仕事はあまり楽しくなかったんじゃないか、と思われる。そうでなければ革命にうつつは抜かさない。

 工員として働いていたのであれば、あまりよい扱いを受けなかったとか。たった十五歳の少年が、皇帝を暗殺するために爆弾を仕込んだかばんを持って、運河のほとりを「青ざめた馬」の主人公よろしくうろつくのであれば、それなりの理由があったに違いない。それなりの。

ペテルブルクは大いなる対立と矛盾と幻想の町なのだ。ときには虚構の町と言われることさえある。

 つい、フィクションの人物を妄想で彷徨かせてしまったが、そんなサンクト・ペテルブルグだからこそ、ソフィアやウイルク、ユルバルスが息を潜めていた、という妄想もまた、できるのかもしれない。改めて、野田サトル先生の事件や場所のチョイスにしびあこである。