日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書日記:「オオカミ その行動・生態・神話」(エリック・ツィーメン/今泉みね子訳)

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三年ほど前に買ってそのまま本棚にしばらく挿さっていた本なのだが、書いてある内容が四〇年ほど前の話題なのでおやと思って表紙をよく見たら「新装版」とあった。旧著の装丁差し替えでまんまと読んでしまった。

 なぜまた、白水社がこの本を最近になって復刊しようと考えたのかはわからないが、少なくとも私が本の存在を知ったのは、Twitterでこの魅力的な表紙が流れてきたからだ。

 旧版のほうはオオカミの顔の写真のアップ。それよりもこの遠吠えのイラストは詩的な感じがする。

 本書の最終章では、著者の専門の動物生態学の外に出て、ヨーロッパを中心とした人文の世界で狼という概念がどのように捉えられてきたのかについて、概説を試みている。比較文化論や人文分野に深く踏み込む考察とはなっていないが、それまでの章でこの生物がその生存にいかに人間の影響を受けてきたのかにたびたび言及しているので、「人間側の歴史」の視点が最終章に入ることでより理解が深まるしくみになっている。

 

 500Pの著書だが、文章は平易で(多少、原語のロジックが日本語にしにくいのかな? というところも訳文にはあったが)読みやすい。著者による飼育観察の時系列的な事例紹介から、そこから見てとれたオオカミの具体的な行動や生態、その後先行研究の紹介をはさみ、今(著作内の「現在」だ)なお野生のオオカミが生息するイタリア・アブルッツィ山地に彼らの生態を研究しにいった際の観察とエピソード、最終章で人間の「文明」との関わりとそれによった悲劇の歴史、現在の「オオカミ保護活動」の概説などが順に書かれていく。

 

「徹底した階級主義」「オオカミの階級は血筋で決まる」「孤高のハンター」「人間の施しは食べない」以上のようなよくある「オオカミ神話」は本書の中ですべて否定されている。群れの中で安全に繁殖される個体は第1位のメスであることは確かなのだが、このメスだってうかうかしているとすぐに地位をとって変わられる。メスの争いは熾烈だが、一度獲得した「アルファメス」の地位が自分の死まで守られるというわけでもない。その地位が血統によるものでもなさそうだ、というのも、著者の観察で明らかになっている。近親交配を避ける傾向はあるらしいのだが、メス同士の戦いに勝ってもオスの関心を全く引かないというケースもあるらしい。

 地位が偶然や自然環境など、生まれながらの優位性以外の要員でも流動するらしい、という観察は、もしかしたら若干、著者の価値観のバイアスもあるかもしれない。「どうせ生まれた時に一番強い奴が強いんだろ」的な観察で済ませずに、さまざまな角度で事象を捉えようとする姿勢には、自由主義的なというか、先進的ヨーロッパ人らしいリベラルさを感じる。

 本を買っておいてなんなのだが、私は以前、オオカミの階級制に対する偏見から、どうもあの動物が好きになれなかった。2017年の発売と同時に装丁に惹かれて買っておきながら、長いこと本棚に放置していたのもそのせいというところが大きい。絶対君主的な雌雄のオオカミと固定した階級社会。オオカミになるのはやだなと思ったものだが、ツィーメンの観察を読んでいると、どうもそうでもない。下剋上は繁殖期のたびに訪れる。アルファ個体はそうであるがゆえに、群れのメンバーにものすごく「気を遣う」。

 

むしろ群れのすべてのメンバーが、たとえ個々のメンバーの発言の重みがいろいろ異なるとしても、決定に関与しているように思われる。ちょうど制限つきの民主主義のようなものである。メンバーの年齢と地位が高いほど、一票の重みがあるが、他のメンバーの意見すべてを集めたよりも勝ることはけっしてない。群れの多数の意見に反しては、最上位の雄も自分の意見を通すことはできないのである。ふだんは群れの活動を無制限に決定しているようにみえる、交尾期中のアルファ雌すらそうである。(中略)この観察は、群れでの決定プロセスが従来考えられているよりもはるかに複雑であることを示している。(後略)(本書P257-8)

 

 著者は、(誠意のある動物学者ならみなそうであるだろうが)擬人的な観察は注意深く避けている。上記の観察も、つぶさに個体の行動を観察した結果導き出された推論である。そういう学者としての誠実さが随所に見られるからこそ、この推論もきっとそうなのだろうと受け入れられる。

 

 最終章でのオオカミたちと人間の確執を読むと、ここ数ヶ月に読み進んできた本たちともこの本は不思議にリンクをしてくる。政治的に彼らが、彼らの「幸福」とは別のところで利用されていく過程は、どこか人間同士の「先住民対植民支配者」の現在における構図にも似通っている。買った時期も機会もまちまちの本が不思議にどこかでリンクしていく現象にはしばしば出くわすが、それが「手に取ったことによる潜在意識」の問題なのか、あるいは文字の表現物というのは、これほどに守備範囲の広い事象について本来的に語れるものだということなのか、あるいは単に、読む方の興味関心の問題なのか、最後は内容とは全く別のことを考えてしまった。