日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書日記:「サイコパスの真実」(原田隆之)

 

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 Kindleちくま新書フェアをやっていた時に破格の割引がかかっていた中の一冊。「情報生産者になる」「アイヌと縄文」などもこの時に買って読んだが、本書は「犯罪心理学」の部類である。

 余談であるが、kindleの不便なところの一つに、本であれば必ずどこかに書いてある「著者略歴」がちくま新書では割愛されている。たぶんカバーの折り返しあたりに(本来であれば)書いてあるのだろうが、折り返しはデータ化の際に割愛されてしまっている。各自ネットで調べれば? ぐらいの突き放し方。ちくしょう。いいよネットで調べるから。

 

https://gendai.ismedia.jp/list/author/takayukiharada

 

 講談社の「現代ビジネス」のサイトには複数のご本人による寄稿もあって、著者としての為人などもわかりやすい。このプロフィールには書いていないが、少年鑑別所で心理技官をしていたこともある、と本書にある。現場経験も積んだ上で、複数の大学で学び、教えてきた方のようである。

 

 サイコパスと普通の人との決定的な違いは「道徳のジレンマに揺さぶられることなく、眉ひとつ動かさずに、それを軽々と飛び越える(本書:2章1より)」人である、ということだ。

 もっと深掘りすると、4つの因子からなる特徴をもちあわせている、という。

 

・対人因子

・感情因子

生活様式因子

・反社会性因子

  この定義はロバート・ヘアというカナダの犯罪心理学者による定義である。とはいえこれらの因子も、他の精神疾患などでも見えるようなものもある。結果的に一部が当てはまっていても、サイコパスではないという事例についても列挙がある。

 もっと大掴みに、「サイコパスとは、不安を感じられない人々」であり、「同じ人間同志であるのに、他人にちっとも共感をしてくれない人」である、とざっくり定義づけられそうではある。ちょっとばかし、人の心の動きに鈍感だったり、気が利かなかったりするぐらいではない。また、ちょっとばかし思い切った行動が取れるぐらいではない。

 若干上滑り気味に思い出したが、ムネオハウスで有名な鈴木宗男は、「嫉妬を感じることができない人だ」とか、誰かが言っていた(書いていたか、なにかのインタビュー記事を読んだのかは忘れてしまった)のを思い出した。鈴木宗男がそういう感情を他人に見せないことに長けていたのか、ほんとうにそういう感情を持っていないのかは今はおくとして、なんらかの、人間が当然持っている感情が欠落した人物、というのがありうるのだろうか。ある、というのが本書の見解である。

 

 不安と共感がない。

 

 だから、思い切ったリスクを取れるし、人にひどいことをしても何も感じない。

 

 若干コミュニケーションが苦手な内気な人物が、「私サイコパスかも」と思ったり自称したりすることがあるが、内気な人物がサイコパスであるというのはちょっと変である。内気である、というのを「対人的な不安や恐怖を抱えているから」というふうに定義づけると、むしろその点で少なくともサイコパスではないだろう。衝動性、積極性、不安の欠如がかれらの特徴であれば、「対人恐怖症」だなんて健全な精神を持ち合わせていれば、もう大丈夫、ってことにならないか?

 本書には、犯罪心理学の研究者が自分の脳みそを調べたところ、自分こそがサイコパスだったことがわかって愕然とする事例が書かれている。神経学者ジェームズ・ファロンのエピソードだ。

あるとき、たくさんの脳画像が山と積まれた研究室のなかで、これとは別の目的で撮影した、自分自身を含む家族の脳画像を点検していた。そのとき彼は、そのなかにサイコパスの特徴が明らかに見出される画像があることに気づいた。

 最初それは、間違って殺人者の脳画像が紛れ込んだのだと思った。しかし、何度もチェックをした結果、それは紛れもなく自分自身の脳画像であることに気づいたのだった。

 ファロンはその後、「では、自分は重大な犯罪を犯さずにすみ、かれはなぜ犯してしまったのか」と考える。まさか夢にも自分自身が「そう」であるなどと思ってないどころか、まさに「病例」として研究していた犯罪者たちと自分自身とが同類であったことを知ってしまったファロンがもし、普通の人なら、そこで研究をやめてしまったかもしれない。

 筆者は繰り返し、誰か特定の個人を名指ししてサイコパスと決めつけたり、サイコパスだからと言って人権を取り上げたりするのはよくないことだ、というふうに書いている。また、それが「他人の物語」であると決めつけず、いつ何時、自分こそが「そう」かもしれない、と思うべきである、ともいう。著者が現代ビジネスに投稿している寄稿も、犯罪者そのものへの非難よりも、社会がかれをどう扱ったのか、異分子を弾き、「自分は違う」と思っている「われわれ」にこそ、繰り返し警告を発しているように思う。

 それでも、おそらくは元刑務官としての良心が叫ぶのか、「サイコパスは危険である、できれば関わらないに越したことはない」ともやっぱり繰り返し、書いている。興味本位で関わって不幸になる人を少しでも減らしたいという思いか、それこそ本書の後半に書かれているように、サイコパスの魅力にころりと騙されて、彼らを社会悪に持ち上げるような行為を戒めているのか。

 

 本書のエピグラフと、ラストは呼応している。

神は言われた「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」

 聖書の創世記の言葉である。

 

 締めの一文はこうである。

もしかすると、神という存在のモデルは、ほかならぬサイコパスだったのかもしれない。