日月星辰ブログ

Vive hodie.

梅昆布茶

梅昆布茶に初めて親しんだのは、たしか中学校ぐらいの頃だったと思う。

私が中学生のころ、といえば、サントリーの烏龍茶が爆発的にヒットし、「平成の米騒動」と称される古今まれに見るお米の不作があり、という頃で、母親はタイ米の美味しい炊き方を工夫し、「パエリアやチャーハンは案外行ける」とか「もとよりひとの食べ物なのだから美味しくないはずがない」などと言いながら躊躇もなく家族にタイ米を振る舞った。我々も普段と目先が変わって、さらにはああいうさらっとしたお米が嫌いではなかったので、皆美味しく食べていた、と思う。

そんな頃である。

そこからすこし遡ること5年もすれば、一家に1つ、夏には必ず「ミロ」と「カルピス」があり、ネスカフェゴールドブレンドの空き瓶は小銭いれに使われるというあの昭和桃源郷の時代に至るはずである。実際、我が家にはカルピスとガラスの麦茶を入れる瓶、麦芽飲料ミロ、それにフルーチェ・ゼリエースと少し贅沢ができるときにはレディボーデンがあった。贅沢が出来ないとチューペットか生協のミルクアイスになる。

おそらく我が家はその中でも典型的な中産階級で、お友達のしょうこちゃんのお家のようにスノッビーになりきってお父さんが貿易商社で働かざるを得ないというわけでもなく、といって裏のブロックの一角に住んでいたとしみちゃんのように着るものにも困り手癖のわるい少女になることもなかった。あおっぱなもたらさないし、おにいちゃんのお下がりをむりやり着せられることも無ければ、といってしょうこちゃんのようにレースのふりふりの靴下などを履くこともない。母親がいささか隠棲気質だったので無理にだれかと仲良くさせられることもなく、くだらないごっこ遊びも途中で帰ってよかったし、光GENJIの名前やおニャン子クラブの名前を知らなくても構わず、嘘つきのしょうこちゃんには歯牙も引っ掛けられないし、かといって普通の家庭のおじょうさんのようにとしみちゃんを積極的に仲間はずれにしなくても、家に帰って理不尽に怒られたりするようなこともなかった。友達は敬虔なクリスチャンのおかあさんを持つかなえちゃんほぼ一人で、それに特に不自由も寂しさも感じていなかったが、小学校に上がると生粋のゴロツキの中に放たれ、すこしばかり苦労をしたものの、今思えばとても恵まれている。小学校の時にゴロツキの洗礼を受けたせいか、中学では友人には苦労せず、積極的な人交わりは避けるものの概ねリベラリストを自認しており、生徒会においてはノンポリで、演壇に立って得意気に演説する髪の毛つやつやなら候補者を白眼で見、甲高い声で喋らず、押し付けがましくもない物静かにもえばなしをする友人にのみ青眼で対した。普通一番つらい思いをするのは中学らしいが、中学は部活が忙しくていじめ/いじめられとは無縁で、高校はさらにそれどころでは無くて部活と受験に明け暮れる。その代わり少しは自尊心も自意識もあるような思春期に、だれも注目してくれない子供であったことは確かで、気持ち悪がられて避けられることさえなかったものの、自意識ぱつぱつの同世代にはうまく溶け込めなかった。

家では私が中学2年ぐらいになったころ、部活やらなにやらで帰りが遅くなってきた私のために、夜10時頃に「10時のティータイム」があった。3時のおやつは滅多に食べられないので、10時にミルクティと多少のおやつを食べるのである。そこで弟や両親といろいろな話をする。といって、父はその頃が一番忙しくて、午前一時頃に帰ってくることがままあったので、なかなか仲間に入れなかったのだが。

さて、我が家梅昆布茶初デビューはひょんなきっかけで、みんなが大好きなリプトンの黄色い紅茶がちょうど切れてしまったことから始まった。緑茶もない。コーヒーはまだ弟がその年令に満たないと判断されていたのか、一度もテーブルに上ったことがない。母親は玉露園の赤い小さな缶を、ついに持ち出すに至った。

昆布出汁と、顆粒の梅干しエキスをお湯に溶かして飲むそれは、初めはなんだか、味噌を入れる前のだしと言うか、うっすらしょっぱくてちょっと生臭い(潮の香りなんだろうけどそういう情緒はまだ形成されていない)、奇妙なのみものという感じだったが、私はなぜか、一度で気に入った。うまいうまいと喜んですすっている娘に、母は、これはおばあちゃんの飲み物だよ、というようなことを言って、苦笑していた。

それ以来、あのちいさな赤い缶を見ると、その時のことを思い出す。おそらく私が本当のおばあちゃんになっても、なお思い出すのだろう。願わくば玉露園はパッケージのデザインはあんまり変えないでほしいものである。