日月星辰ブログ

Vive hodie.

告白

正直なところを申し上げると、私、生まれてこのかた、「脳みその中が霧が晴れたように冴え渡った」ことは、なんと2度しかない。

一度は、受験勉強でさんざん苦労して濃霧をこさえた頭を抱え、第一志望の大学の試験場に赴いたときである。答案に向かったところで手で触れるほどの濃密な霧に囲まれたような脳内なので、まあ今年も落ちるだろうな、と思った。

ところが、さすがに留年1年で培った完全なるプロフェッショナルによるスパルタ教育なるやさすがというばかりで、(たったの)3教科の試験中、「スターをとったマリオのように」頭は冴え渡り、なんとか合格できたのを覚えている。

もう一度はある論理学の本を読んだ時で、これまた1週間ぐらい、霧が晴れ渡ったような清々しい気分を味わったのであるが、……ほとんど1週間でまたもやもやに戻ってしまった。惜しい限りである。

どうも、40にして惑わず、とかの紀元前ニート偉人も教える通り、そろそろ40も数えようというからには少しくらいは霧が晴れていてもいいんじゃないか、と思うのだが、いっこうに晴れない。これがいきなり、40の誕生日になったらぱあっときりが晴れるなんて、そんな虫のいい話もない。

もっと、こう、世の中を見て掌をさすがごとく、……とは行かぬまでも、すこしは理知的なものの見方ができるようになりたいもので、そのための努力もまあちょくちょくはしているつもりだが、努力の方が足りないようで、いっこうにその方法とやらが身に付かない。これはもちろん、どんなことを知っているか、とか、どこの大学を出た、などという愚については言うに及ばず、「きちんと身の回りが見えている人」をほんとうの教養人というべきで、どんなにものを知っていてもごちゃごちゃであればやっぱり、だめなんだろうなと思う。10を知っていてきちんと整っている人の方が、100のことになんとなくの知識があってごちゃごちゃしている人よりもずっと賢いんだ、という信念は変わらない。