日月星辰ブログ

Vive hodie.

調子が悪い時

調子が悪い時にまずどこからだめになるのかを考えてみた。

案外と、「つまらないこと」ができなくなるのはずいぶん先で、「楽しいこと」がまずできなくなるものだな、と思う。

 むろんこれはカッコ書きにしたとおり、本人にとって得意だったり、やりがいがあったり、ということと、世間一般で言われている「余暇」か「仕事」かみたいなカテゴライズとは必ずしも一致しない。

 昨日(今日記を書いているのは6月13日の朝で、つまり記事的には遡った日付設定でも、概念上は「昨日」である)あたりから天気も優れないせいか、やる気がなんとなく出ない。数日前には何がなんでもヤル! みたいなテンションだったが、それに息切れしたというわけでもないらしい。単なるどんよりとした天候のせいか(それでも雨が降らないのは大変ありがたい)、月の周期的なものなのかはわからない。

 そういう時はまず、趣味ができなくなる。

 そういう時にこそできるものが趣味じゃないのか、というむきもあるかもしれないが、私はそうではない。なぜ、そうではないのかを考えてみる。欲目があるのか? プライドでもあるのか? そんなプライドを持つほどの趣味でもないような気がするが…。

 楽器のレッスンにはかろうじて行った。約束していることは果たせる。演奏が楽しかったかというとそうでもなかった。譜面だけは読み込んでいったので先生には褒められたが、今までの私よりは多少ましだぐらいのことだとおもう。もっと、楽器に向いている人は譜面を読み込むのも早い。

 本を読んでも、いちいちわからない点が引っかかる。今はドゥルーズの「ニーチェ」を読んでいるが、おそらく赤川次郎でもひっかかっては気を削いでいただろう。そうなる箇所が多いか少ないかだけの話で、赤川次郎だったら登場人物のセリフの意味がいちいちひっかかるだとか、小説文法とはみたいなことを考え出して、全く楽しめなかったに違いない。そういうテンションである。中井英夫の小説に、ある子のない夫婦のところにある日突然奇妙な青年がくるという話があるが、あの青年の「言葉を発しようとするとその意味が気になって仕方なくて話せない」みたいな感じに似ている。あの話もどうしたかったのか、解説にはトランプの絵札をイメージしたとかあったけども、入れ替わり立ち替わり絵札が出てくるのはいいけどどこに着地する気だったのだろう。あれも絶筆である(中井は絶筆が多い)。

 Twitterも見ていても画面が滑るばかりであまり入れ込めない。昨日からつぶやきは140字ミニブログに立ち返ろうと思って、自分でも脳直のつぶやきは少しやめることにした。一つのつぶやきでなるべく長めの時間を描写するようにする。そうするとなんとなく140字近辺でオーバーフロー数文字という感じになる。そこから追い込んでいくといい感じの文章になる。足りなければ写真をつけるし。誰かに何かを訴えようとすることに疲れたし、誰かを馬鹿だとか賢いとか、間接的にも評価するのにも疲れた。

 そのくせごはんは割とちゃんと作って、以前からやってみたかった水晶鶏を作り、そこそこ美味しくできた。賞味期限を若干(1日ほど)すぎているでかい鶏肉を400グラムほど使って、つるつるで美味しい水晶鶏を作って、付け合わせにお野菜も添え、味噌汁も作って、自分の食器ぐらいは洗った。それはできるのに同人小説は一向にすすまない。書いていることがだんだん馬鹿馬鹿しくすらなってくる。

 軽い気鬱みたいなものは、だれしもしばしば訪れるものかもしれないが、そういう時は寝るに限る。そういえば夜のお風呂も入れなかった。お風呂と食器洗いなら、お風呂の方が「楽しさ」レベルは世間的には上なのでは? と思うのだが、お風呂より食器洗いの方が心理ハードルは低いのだ。私の場合は。