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読書日記:土屋隆夫「判事よ自らを裁け」社会派と見せかけて男女のドロドロした情念がエッチな緻密ミステリー

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 時折、家になんで買ったのか分からない本があることがある。
 この本もまた、そういう経緯で出現したもののような気がする。

 大学時代、推理小説同好会のようなところ(のようなところ、などと迂遠なことを言わずとも、まあそうだった。ただ、「推理小説同好会」とは名乗っていなかったが)にいたせいで、「土屋隆夫も読んでいないのか」とは言われたことがあるかもしれない。ないかもしれん。

 古本屋で名前を見つけて、「一冊ぐらい買ってみようかな」と思うぐらいには、土屋隆夫という著者の名に思うところはあった、のだと思う。

 角川文庫版、昭和51年1月10日発行、とあった。間違いなく古本屋購入だ。裏表紙に「古書 羊頭書房」というシールもある。調べてみると神田神保町古書店だ。神保町の古本ガレージあたりで買ったものだと見当がつく。定価340円。
 この本の「1975年10月 角川文庫目録」という巻末ページを見てみると、21行3段が3ページにわたってリストアップされていて、時代を感じる。今よりずっと、活字文化が華やかなりし時代だったのだ、と思わせる。高木惟光や山田風太郎吉村昭といった錚々たるメンバーがどしどし既刊を並べている。なお、新刊案内の所にいぬいとみこの「北極のムーシカミーシカ」が並んでいる。だいたいそれくらいの時代だ。

 3年ぐらい前に神保町をふらふらし、1冊100円ぐらいでワゴン投げ売りされていた古本から、10冊ばかりを購入したことがある。その時に一緒に買ったのかな、というぐらいの記憶しかない。普段あまり手に取らない本をわざと買ってみよう、と思い立って、ビル・プロンジーニの何冊かとか、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」みたいなものと一緒に、買ったんだと思う。

 前置きが長くなった。

 本書は短編集で、表題作の他に5作品が入っている。どれも、発行当時の昭和30年ぐらいの雰囲気を色濃く描き出している。解説によると昭和三十六年に上梓され、土屋隆夫の代表作となった「危険な童話」以降の作品群らしい。携帯電話はおろか、パソコンもコピーもない時代(「地図にない道」で新聞の縮刷版を見るシーンがあるが、いまなら当然コピーを取るようなシーンが出てきてはっとしてしまった)。ちょっと前にツイッターで、「サザエさん」の波平さんの仕事机に電話しかない、というのがバズっていたが、まさにそういう時代である。電話とハンコ、紙束、せいぜいが電卓…下手をするとそろばん。
 
「判事よ自らを裁け」「奇妙な再会」はいずれも裁判官の判決への責任意識のようなものをテーマにした作品である。裁かれる方は一生を左右する「判決」だが、裁判官にとっては膨大な日々の仕事の一つに過ぎない。そこには王と民草のアンバランスのような、「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐のあのセリフ「人がゴミのようだ!」にも通じる「何か」がある。

「判事よ自らを裁け」には、人が人を裁くがゆえの公正性の限界について、以下のように書いている。

 

 被告のちょっとした言葉づかい、なにげない素振りが、判事の心に投影する。それはやがて、心理の褶曲の中に複雑な陰影となって、是非の判断を歪めることはないか。

 

 「人が人を裁くことのいびつさ」。

 近代国家はどこ一つ、このジレンマを逃れられない。逆に呪術かなんかで決めようなんて言い始めたら大騒ぎだ。いま、われわれは法曹のプロフェッショナルによる裁判がもっとも公正な裁きだと思いこんでいるが、本当にそうなのか? というのがテーマになっている。

 この2作に登場する平凡な判事たちは、冤罪を着せてしまったかもしれない元被告人の縁者と、それぞれにユニークな対峙をする。権威主義と保身にまみれた彼等二人の反応な……。

 彼らが権威主義に傾くのも、保身に走るのも、その職務の責任が重すぎるのかもしれない。「奇妙な再会」の大賀判事は、そのキャリアを背景に政界出馬を狙ってるわけだから、同情の余地はない。

 権力を追い求める時に、人はしばしば、その責任について考えるのをやめてしまう。そういう話なのかもしれない。

 2作目までの裁く側と裁かれる側のやりきれない意識の差異、それの告発、という風合いの強かった作品から、「孤独な殺人者」「ねじれた部屋」「地図にない道」はまたそれぞれ別のテーマである。

 テーマとしてはけっこうシリアスかつハードなのに、どの作品もなぜか男女の濡れ場ががっつり書かれているのが正直印象的だった。無駄のない巧みなプロットや文体と、えっちな「サービスシーン」が齟齬なく同居している。

 えっち描写についてはわりかし(今見ると)ベタで、よく言えば、昭和的でしっとりしている。湿度が高い。

 

 「アラ、駄目よ、洋服をお脱ぎになって」

 (中略)

 高枝は帯をとった。汗で襦袢がベトついている。全裸になって、乾いたタオルで身体をふいた。

 男の横へ、裸の身体をすりよせると、彼女は、男の手をとって、自分の乳房の上に置いた。

(「判事よ自らを裁け」)

 このシーン、高枝(たまたま事件に関係した街娼である)の手紙の中の記述のはずだが、とちゅうから急に地の文になって、現在形でなまなましく語り出される。まだ、東京に和装の街娼がいた時代なのだ。それはともかく、湿った襦袢の描写が生々しい。そこまで書く必要は特にない。多分。

(もっとえっちなシーンもあるけど、それはまあ、この際割愛する)

 もうひとつ。 

 「いや」

 しなやかな体が胸の中にころげこんだ。彼は、その頬の上に顔を伏せた。

 「駄目よ。後悔するわ、パパさん」

 その言葉が一層彼の炎をかきたてた。

 (「孤独な殺人者」)  

 この話は「密やかな情交」なしでは成り立たない話なのだ。だから仕方ないよね。若いホステスによって籠絡されていく主人公。パパ活、などとカジュアルにしたくない淫靡で妖しいシーンだ。

 他にもいろいろあるが、きりがないので割愛する。男女の情念は決定的な犯罪の動機に結びつきやすい。男女に限らず、男同士だって、女同士だって。身体と心が深く絡んだ人間同士は、決定的に恐ろしいところに落ち込む可能性が高い。 

 

 まあ、そんなわけで濡場も巧みでえろいよ、というところだが、一方で土屋の文体は無駄を省いた歯切れの良いところも、特徴だと思う。

たとえばここのシーンとか、すごい。

 足もとの異様な感触に、学生が「ワッ」と声を上げ、尿意を忘れて走り出した瞬間から、事件は捜査課の手に移った。

(「判事よ自らを裁け」)


 鮮やかすぎる省略である。走り出したら交番に駆け込んで調所を取られたりなんだりするはずなのだが、そういうのはいいから、と言わんばかりだ。「 尿意を忘れて」というところにユーモアも含めつつ、巻きに巻いている。

 

 「街をあるく女の服装が、白く変わった。」という表現も個人的に唸った。簡潔かつ、効果的な描写だ。
 昔は暖かく、眩しくなると女の服は白く変わるものだったらしい。このフレーズにはほんの少し性的なイメージすらある。やっぱり土屋隆夫はえっちだ。

 落ちぶれた華族の娘がが成金実業家に嫁いで夫を殺そうとする話とか、遅咲きに結婚した妻が突然失踪した夫の行き先を調べる話とか、男と女の、濃密な人間関係から発生する裏切り、すれ違い、恨みつらみ…

 それは昭和のみならず、一皮めくれば令和の時代にも脈々と生きている、人類が永久に解決できない罪業の一つに違いない。