日月星辰ブログ

Vive hodie.

問題提起があって、証拠固めがあって、謎解きに至る

まあだいたい、するすると文章を書ける状態にある場合は、表題のようなことを考えてある場合が多いのであって、するするとならずぎくしゃく、ひょろひょろ、という場合は、この段取りがだいたい、うまく行ってないことが多い、とよく言われますが、ほんとそのとおりだと思います。

夏目漱石がなんであんなに読みやすいかといえば、やっぱり教師をやっていて、さらには帝大出身の秀才ですからこのあたりがすごくこう、巧みなんですよね。「吾輩は猫である」なんかに書いてあるうんちくや説明の箇所の立板に水っぷりとか、たまりませんね。夏目漱石は講演の聞き書きっぽいものも残っていて、岩波文庫で「漱石文明論集」とかいってまとまっていますが、これがまた落語みたいに面白おかしいので、大好きです。「開化の定義の難しさ」について、「変化をするものを変化しないものだとしてピタリと定義をくだす」から座りが悪いのである、「巡査というものは白い服を着てサーベルを下げて居るものだと天から極められた日には、巡査もやりきれないでしょう」となり、「開化とは変化するものである」と運んでいくその軽妙な感じが何度読んでも面白いです。漱石先生は話の枕もすごく面白くて落語家みたいですよね。

そこへ持ってきて、いわゆる「お話の大原則」として古くから信奉されているアレ――「起承転結」の妙については、正直なところ私はあまり面白さが分かっていないです。「起承転結」って漢詩のことばですよ。ポエムの法則を小説に持ってきて、うまくいくかなと。漢詩ならいいのです。「起」で風景やら情景をまず起こす。「承」でそれに色をつけていき、「転」で別の視点を持ってきて「結」でどうだ、というわけです。すごくわかる。小説みたいなものにこれを無理やり当てはめると、けっこうつまらないと思うんだけど、どうか。そもそもまあ「起」はいいや。あるところにおじいさんとおばあさんがいるわけです。「承」ってなによ。なにすりゃいいんだよ。「転」もよくわかりません。たとえば一人称で語っている場合、外的要因によって何かが変わるのが「転」ということになるのだろうか。平凡な日常になにか事件がもたらされるのが「転」か。だったら普通の書き手なら、いまはふつう「転」からおっぱじめるのではないか。「結」はまだいいです。が、なにをもって「結」とするのか。「決着があって落着はなし」という徐晃さんはどうすればいいのか。

だから得意気に「起承転結」っていうのを、私はすこし躊躇してしまうのです。あるところに住んでいたおじいさんのところに大きなももが突然現出するのは、紛れも無い「日常の転化」でありますが、これは大きな物語の流れにおいては「なにかのはじまり」にすぎないのです。その子は異様に生長が早かったり、ある日突然鬼を退治しますと言い出したりしますし、物語的には「鬼退治」の場面こそが英雄譚・サーガであって、もっとこう、筆を走らせ、妄想をふくらませるべき箇所なのかもしれません。そもそもこうして予め語られた話を漢詩のお作法で分解してみせるのだって、どうも根源で釈然としない。いや、普通に小説を、真面目に書こうという方にはそれでいいのですが、もえ小説を書こうとした時に起承転結がはたして、役に立ちますかね? 私は立った試しがないです。

おそらく。「起承転結」とやらが役に立つのは、すでに物語の全体像がうすぼんやりでも見えている段階からであって、アイディアをひねろう、という段ではどんなに「起承転結」の呪文を唱えてもいい物語なんて生まれてこないんです。漢詩で「起承転結」が役に立つのは、すでにテーマが決まっているからです。初めに着想ありき、です。「うぐいすが泣いたのが切ないのはなぜだ」というところから歌いたいものが沸き立ったときに、それを説明する手段として、ああしたものが甚だ便利だ、というまでで、「どんな話をかこうかな」ってときにはくそのやくにもたたん。まだ座禅でもしながら花…とか触手…とか着衣エロ…とか言ってたほうがイイような気がする。

それはもう、「かっこいい張遼がかきたい」っていうビジョンがないままに「デッサンが」とか「パースが」って言いながら絵を描くに等しい。まあ「かっこいい張遼」から「デッサン」は割に距離が短いような気がしますが、話の場合はさらに困ったことにじゃあ「触手…」からすぐに「起承転結」にいくのは甚だ難しいように思う。

「触手」がなぜ登場せねばならんのか、なんの「触手」か。「触手」はどう受けと絡むのか、とかを個別具体的に詰め上げた上で、ようやく「起承転結」の魔法となるような気がする。技能「起承転結」の発動ターンはすごく長くって、多分3939の魔法よりもさらに長くを待たねばならないのです。