日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書感想:橋本治 黄金夜界

何も知らないで読めば、富裕層の男女のすったもんだを描いたソープオペラ的な小説である。際立ったところといえばその文体ぐらいなもので、全知全能の三人称らしき、冷めた、主観はすべて「登場人物に任せた」感じがブレずに徹底されている点ぐらいか。知らないで読めばそういう作品だが、本作は「金色夜叉」の二次創作である。そういう前提に立つと、「なんでまた」という点が「まあ原作あるしな」になる。

 とかいって私は「金色夜叉」を読んだことがないのである。原作にあたる前に二次創作を読むのは同人界隈ではマナー違反にあたり、はしたない行為と見なされる。貫一お宮についても特段の思い入れはない。橋本治が好きだから買って読んだ、という作家買いである。同人作品でもごくたまに作家買いをすることがある。10年ほど前は原作は知らないのに同人誌のあまりの勢いの良さに同人誌だけを買ってしまったこともある。しかし同人誌というのは原作がなければ面白さは半減するように書かれている。実際そういう作品も一読以上には至らないことがおおい。同人界の掟はまもるべきである。

 同人というのはやっかいで、たとえ「読んだことのある」作品でも自分の宗旨とはずれたカップリングの本をむやみに買うな、という掟も存在するようである。こちらの方は「キャラがわかってりゃいいじゃん」と思わなくもないが、そうやって勝手に買った挙句に「あーたの主張するA×Bというカップリングは邪道だと思う」だのといった余計なことを作家に申し上げる輩がいる。いるせいで宗旨違いを買うこと自体が異端視されるというやっかいなことになっている。単純にあの作家の書くものはいいから多少あれでも買う、でもいいだろう。よくないか。まあ黙ってればなんだっていい。

 そこは、橋本治である。「金色夜叉」未読でも楽しめる。血のつながらない「兄妹」の「間違い」を前提にした恋愛物語。第一部では二人が結ばれるまで、第二部では「妹」の裏切りと「兄」の異世界転落、そして復活、第三部ではそうして成り上がった「兄」と「妹」の再会——と、まるでマジ、平成末期から令和にかけて隆盛を極めたライトノベルにもよく見るプロット満載で、ワクワクしてしまうのである。そういえば、「金色夜叉」も大ヒットノベルだったわけで、舞台化、映像化、イメソン、他メディア展開の元祖である。銅像まで立っている。いまならフィギュアやぬいがめちゃ売れる。

 二次創作とはいえ、舞台こそ現代に移し替えられ、貫一もお宮も今らしい立場を獲得しているが、——男の方はまあそんなに変わっていないのに、女の方はだいぶん隔世の感がある。20世紀とは女性が権利を獲得していった100年なのだなあ(そしてその戦いはどうやらまだ終わってはいない)と、思ってしまう——秀才貫一青年は「みいさんこれきり」という代わりに赤羽のブラックな居酒屋でがむしゃらに働き、そこのヤクザまがいの経営者に認められて頭角を表してゆく。このくだりはなんか龍が如くの1エピソードにぴったりでもある。

 尾崎紅葉は亡くなって先を書けなかったが、橋本治は存命中に本作に決着をつけてくれた。結末はもうね、「そうするしかないよね」というラストなんだけれども、その道具立て、立会人、舞台、いずれも橋本は「世紀の悲恋の二人」にしてはいささかださめのものをあてがっている。それも込みでの「読解」なのだろうと思われる。「金色夜叉」にはロマンティシズムがあるけれども、本作にはそんなにない。せいぜいが月9程度のあれである。100年かけて日本人が失ったのはロマンなんじゃなかろうか、というほどつまんないものをわざわざ持ってくる。本作の上流階級にそれほど憧れが抱けないのも、多分大方の読者の感覚だろうと思われる。大富豪ってメ●カリとかゾ●タウンとか・・・? いくらなんでも冷ややかすぎやしないだろうか。橋本治ともあろう人が無自覚にやっているとは思えないので、多分わざとだろう。

 それでもいろんなところに「今の一流階級ってこんなかんじなんだー」というのがリアリティとともに刻まれていて面白い。みいさんが旦那とどっかいく時に「服を決めなきゃいかんから一ヶ月ぐらい前にいえ」とか言い出すところとかめちゃいい。安普請の大家さんの、背中に変なプリントしてあるジャケットに貫一があきれるところとかもいい。我々庶民はそういうところからすでに道を踏み外しているわけだ。しまむらで「I LOVE JAPAN」とか書いてあるスカジャン買ってる場合じゃない。

 この乱文が感想かどうか、だんだんわからなくなってきたが、少なくとも私は本作読了後にどっぷりと、「黄金夜界」の世界に浸かり込んだことは確かだ。草鞋メンチどうすんだよ貫一。ふざけんじゃねーぞ。バイトくん困ってるじゃないか。おい! なあ、おい!!