日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書日記「大尉の娘」アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

 ロシア文学、興味はないなりにいくつか読んでいたが、ようやくこの「大尉の娘」で父称というものがわかってきた。

 ある程度の身分になると、ミドルネームに「誰それの息子/娘」というのがはいるのがロシア人の名前である。今はどうなってるのか、みんなつけてるのか、付けたい人だけつけるのか。中国の「字」なみに面白い風習であるが、ウィキペディアで「父称」について調べると柳田國男がかつて日本でも東北地方ではそういう風習があったと言っている、というふうな記事にたどり着く。今どうなってるかとか、他の地域ではどうなのかは今は置く。とりあえず、「大尉の娘」が書かれた頃の帝政ロシア時代には、父称を名乗れるのはある程度の身分の人だけらしい。

 そこそこの身分のボンボン(失礼)が、思春期すぎたぐらいで家から出て軍隊に着く、というところまでは、「タタール人の砂漠」っていうイタリア人の不条理小説で読んだプロットと結構似ているが、「大尉の娘」は途中で割と大きく筋が変わる。

 初めのうちは世間知らずのボンボン丸出しの主人公ピョートル・アンドレーイチ・グリニョフは、正直褒められた人物ではない。立ち寄った宿屋で賭けビリヤードか何かに負けて大金を巻き上げられたり、吹雪の中で馬車を無理やり進めようとして遭難し、途中で出会った素性不明の人間に助けを求めるなどの右往左往ぶりである。砦に行けばいったでそこの司令官の娘にのぼせあがり、同僚のシヴァーブリンともめて決闘をしだすという面倒くさい人物である。

 話の毛色が急に変わり出すのは、決闘騒ぎが治ったあとあたり、プガチョフの反乱にベラゴールスクが陥落してから様相が変わってくる。平穏かつぬるい日常が壊され、若者は覚醒する。人間がいつまでもある特定のキャラクターに収まるものではない、というのは人生をある程度歩んでいるとだんだんわかってくるものだが、若者は特に危機に面して変貌する。それはまあわかる。一目惚れ的に好きになっただけのマーリヤとの婚姻について親父に面倒くさい手紙を出してにべもなく断られていたあのピョートルが、プガチョフの登場により俄然ヒーローじみてくる。

 プーキシンは決して行き当たりばったりでこの作品を描いたわけではないだろう。プガチョフの乱についても調べた上で構想したとある。もともとはシヴァンヴィチ少尉に着想を得、・シヴァーブリンを主人公にするつもりだったそうだが、あくまでロシア帝国側に立つヒーローを設定した。プーシキンの当時の政治的な立ち位置が影響しているものかどうかはわからないが、そのあたりが原因なのかなと思う。惨めったらしく敗北する裏切り者と、ロシア帝国万歳で終わるストーリー。若干「水戸黄門」的なプロットを感じなくもないが、プーシキンの初めの構想がこれだったのかどうか、はわからない。

 ロシアの民衆は家父長的な君主を求める傾向にある、というのは複数の本で書かれているが、この作品のエカチェリーナ二世、完全に水戸黄門である。お上である。先の将軍水戸光圀公に無条件に平伏するプロットは日本でもついこないだまで健在だった。日本で初めて訳されたのがこの「大尉の娘」だったのも面白い事実だ。