日月星辰ブログ

Vive hodie.

献立を考える

三食自炊生活になってかれこれ一月以上が経過した。一日に三度、まず例外なく台所に立つ。出社日などは朝食をサボるが、在宅時はだいたい作っている。

 

母が栄養士だったせいか、実家での食事には概ね不満がなかった。体質的な問題で一時期刺身のような生臭いものが苦手になったり、キウイアレルギーで七転八倒したりしたこともあるが、ピーマンだの人参だのを嫌いと言った記憶はない。嫌いだったものは給食。一人分がとても食べられない。幼稚園のお弁当に牡蠣のしぐれ煮が入っていたのはほんのりトラウマになっている。牡蠣はオイル漬けまでなら大好きだがしぐれ煮だけにはするまいと思っている。なぜ 幼稚園の弁当に 牡蠣のしぐれ煮。おそらくは亜鉛を補う手っ取り早い食材としてあれしたんだろうが、マニアックすぎやしないか。栄養士さんもっとよく考えて。

 

母は管理栄養士だったが学校給食は手がけたことがなかったはずである。主に、病院などで病院食の献立を考えていたそうだ。一度、精神病棟を訪問したこともある、と言っていた。おそらく40年以上が経過した今、そういう話を覚えているのは、よほど強烈な体験だったのだろう。とはいえびっくりするような患者がいたとか、そういう話にはならず、扉がさりげなく厳重に作られていたことに衝撃を受けたと言っていた。

 

 さて、家の献立の話である。子供や夫を抱えた女性であれば、献立を決めるのは悩ましいものだそうである。子供が「これ嫌い」という。夫が「もっとなんかないの」という。皿を洗わない。皿を洗っている間、ビールを傾けながらテレビの野球中継を見る配偶者に業を煮やす。なまじ結婚などしていると連帯責任というものを求めてしまう。野球なんてどうでもいいから、皿を洗え。あとでなく、今洗え。となるのはわかる。

 これが独り者だと咳をしても一人、皿をいつ洗うかの裁量も気分も、全て己に帰せられる。朝昼晩、何を食べるかも然りである。当然、己の食べたいものを己の欲望のままに作るのであるから、献立に悩むということがない。大変ありがたいことである。

 

 レパートリー? そんなものはレシピブックをいくら覚えても意味がない。どうせよく作るのはせいぜい10品もあればいい方だろうし、もっといえば炒め物も野菜や調味料を変えれば違う料理カウントである。食材は変えれば違う料理。いちいち献立を気に病まない考え方としてこれを提唱したい。

 まずはスーパーで、だいたい3日から7日分程度の食材を一気に買ってくる。日配と呼ばれる野菜や卵、肉がメインである。時折買い足し程度に缶詰やパスタ、調味料やスパイスを買う。野菜は案外持つものだが、なんとなく「もちのいいもの」と「すぐ食べたいもの」をバランスよく買う。緑黄色野菜と淡色野菜のバランスもほぼ半々ぐらいにする。肉・魚もできれば両方買う。肉は違う動物のものを3つくらいまとめて買ってしまう。全ての食材は「今スーパーで安いもの」を買う程度でいい。

 そうして重たくなった袋を抱えて戻ってきたら、その日の夜から調理を始める。一気に作ってしまった方が良さそうなものは、作り置きおかずを拵えておくと、副菜になって便利である。どうせそうやって副菜にしたものは、夜にしか食べないが。

 

過日の一日の献立はだいたいこんな感じだった。

 

朝:パンとコーヒー、ハム クリームチーズ、粉末を溶かすタイプのじゃがいもスープ

昼:そば(前日使った薬味ミックスをとっておいて一緒に食べた)

夜:晩酌にビール、乾き物ともやしのナムル、叩ききゅうり梅肉和え、牛肉の小松菜ソースがけ

なんとか生きていける。

 

それでも最近はレシピブログをちょくちょく覗いて美味しそうなものを物色して、なるべく作るようにしている。せいぜい「肉を先に火を通して、後に野菜を入れる」ぐらいの工夫しかしていない料理ばかりやっていないで、水にさらしたり、小麦粉を叩いたり、パン粉を乗せたりというものを作ってはいるが、それは私が食べたいからであって、献立を考えなくちゃとかそういうプレッシャーはない。

 思えば週5日会社に通っていた頃から午後4時ごろになると、今日は何を食べようかなと上の空になりがちだった。単に性に合っている、すなわち食い意地が張っているというだけだろう。

 それぐらいの気軽さで毎日ものを食っていればいいのにと思う。

 

今日はカツオが安かったのでカツオパーティーにした。 あらゆる「相性の良い」とされる薬味が勢揃い、「カツオのバチェラー」御膳である。バチェラー見たことないけど。

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