日月星辰ブログ

Vive hodie.

君たちはどう生きるかのおばあちゃん達考(ガッツリネタバレ)

「考」というほど煮詰まってない。フラッシュアイディアのメモ。

ブログでなら比較的のびのびとネタバレできるのは、Twitterと違って自発的に探しに行かないと読めないから。

 

 

 

登場シーンではなんだか妖精かなにかみたいだったおばあちゃんたち。下女、とか使用人、とかあるいはおさんどん、という人たちだ。

主人公の眞人よりも背が低い。フォルムも頭が異様に大きく、ずんぐりしている。お屋敷の大人たちみたいにお上品じゃなくて、お土産に群がったり、あけすけすぎる感想を言ったりする。ナウシカのババサマとも、トトロに出てきた知恵深いおばあちゃんとも、あるいはポニョのリアルめなおばあちゃんとも違う。

宮崎駿の物を見る視点が、彼個人に素直に、多少の問題点もぜんぶひっくるめて美しいものとして現れてるな、と思ってしまう。卑近さが愛すべきキャラクターまで昇華している。大人の汚い目で見てしまうとまるで下女たちは人でないように描かれている。初見のそういう、嫌な感じはしかし、眞人の目を通すことであくまで史実的な主観みたいに脳内で処理される。あの時代の少年が、慣れない「おさん」の存在を初めて見た時に感じたであろう色んな印象を全部ひっくるめて絵として出された感じ。

 

若い人が一人もいない。顔立ちも整ってはいない。(奥様のお世話係は少しむかし美人だった感がある)そういう冷徹なデフォルメの先に物語の道がついていて、観念の世界では全くのお人形になってしまう。一緒に落っこったキリコさんだけは、生身の肉体らしい物を得る。現実世界の彼女よりも全然人間らしい。

 

若い人が一人もいないのはつまり、ご奉公を受け入れる時代はしばらく前に終わっているということだろう。もう、今いる皆さんたちがいなくなったら、この家の下女制度は終わる。終わりゆく文化の化身みたいな人々。現実のおばあちゃんたちもなんとなく妖精めいているのはそのせいもあるのかもしれない。妖怪みたいに、忘れ去られてゆく存在なのだろう。

そういえば戦中戦後を体験した多くの人が、1945年8月で価値観が大転換したと言っている。あの観念世界の終焉はそのカタストロフィを比喩しているとも言えるのかも知れない。でなければ時代設定をあそこにした意味があまり無いような気もする。

 

作家が本当は何を描きたかったのか、みたいなところ(つまり正解)にはあまり興味がない。自分という価値観に照らしてどう読むか、どうとでも読めるところがよい。

 

宮崎駿は神話の語り部のような人なんだろうなと思う。既存の神話のエッセンスを生かしながら、新しい、現代の神話をこともなく創造してゆく。