日月星辰ブログ

Vive hodie.

読了本:アリス・マンロー『林檎の木の下で』

昨年のノーベル文学賞受賞で一躍、日本国内でも名前が知られるようになったということで、ミーハーな私は早速1冊買って、暫く積んでおきました。

先日ようやく、読んじゃ積み、積んじゃ読みしていた『風立ちぬ』を読み終わったので、次はなにか、新しい作品を、と思ってようやくページを開くことになった。まあそういう積読本は沢山ある。

この年頃で読んでみてよかったと思いました。なんか、初老位のおじさん(あるいは、おばさん)とかの気持ちがうすうす想像ができるようになったくらいがちょうどいい気がします。

「生活のために働く」のラストの文章にぐっときた。

「…二人の老人は夏の午後を、(中略)大きなありがたいニレの木立の下においた木の椅子にすわって過ごしている。そして子供時代の――大人になって捨ててしまった――訛でおしゃべりしているのだ。子や孫はだれも理解できない訛で。」

短篇集なんだけど、ご先祖がスコットランドから船でカナダにやってきて、そこで墓に埋まるまで、さらには作者自身が年老いて、再婚相手と先祖の墓を探りに行くまで、をほぼ時系列に並べた構成になっているので、一連の短編は重なったりつながったり、断絶したりしながらひとつの縄になっています。いわゆる自伝短編、自分史みたいなやつです。むかーしむかし、1977年、「ルーツ」というテレビドラマがアメリカで人気を博し、それからも断続的にアメリカでは「自分史」ブームが起きているらしい、とか、アメリカやカナダにはそういう、なんだか遠い先祖に見果てぬあこがれがあるらしい、とか聞いたことはありますし、なんだかそういうの、日本でいうところのなんちゃって郷土史家、みたいなあれを思わせてちょっとださいなと思っていましたが、これはよかった。

なぜまた人は歴史に魅了されるのか、ヒーロー達のみならず、過去の時間軸になんとなく憧憬や思いを馳せてしまうのか。あの人は実はあの人と5世代前につながりがある、とか、この現象はこういう血の流れに関係している、と言われるとちょっとおっ、となるとか、どうしてなんだろう。こういうのは人類だけなのか、実はくじらもすごくそういうの、大切にしているのか。猫はどうか。ショウジョウバエなんて数週間で何世代も入れ替わるいきものは。よく片田舎にいるなんちゃって郷土史家はなぜ自分の身の回りの歴史を調べようとするのか。100年も生きられない人間だからそうなのか。じゃあ亀はあまりそういうことは考えないものか。

私自身、長い時を経たものは無性に好きな性分でもありますが、それがどうしてなのか、と言われると大変むずかしい。そのものに降りかかった、見えないけど分厚く降り積もっている時間の地層のようなものから、ごそりと取り出して、再び、他のありふれた、つい昨日出来上がったばかりの工業製品と同じく、つかのま手元に留めることに、なんだかロマンを感じるのかも知れない。