日月星辰ブログ

Vive hodie.

キム・フィルビー かくも親密な裏切り とか読んでました

このブログをサボっている間に結構いろいろ読んだ。最後の記事の日付が8月3日だからサボり始めてもう2ヶ月になんなんとしている。

 

『詩的思考のめざめ』姉妹編(ちなみに小説のほうが姉ということである)である『小説的思考のススメ』も割りにすぐに読んで、その影響で小島信夫とか古井由吉に手を伸ばし始めた。あの本も「あ これ読んでみたい」に満ちていたし、平易かつとてつもなく示唆的で、今まで読んだ小説の読み方ってなんだったんだろうと思ったのですが、それを書くまもなく8月と9月が過ぎ去っていき、途中に『史記』を読み、開高健佐治敬三がいかにラブいかを微に入り細に入り描いたこーんな分厚いアレを読み、その他…アレ意外とそんなに読んでないか? 戸川昌子の往年の名作、猟人日記も読んだ気がする。あと「ゴーレム100」とか。読書日記やっぱり付けたほうがいい。

 

枕にしては惨憺たる出来ですが、昨日「キム・フィルビー かくも親密な裏切り」を読了しました。iPhone 6Sに機種変更しようと思って早めにソフトバンクショップに行ったら手続きにえらい時間が掛かってしまい、あと2章ぶん残っていたこの本を持って行ったら読了してしまった。

 しかし、第二次世界大戦〜冷戦終結までの国際情勢にあまり詳しくない頭で読みだしても、なかなかこの本の肝はわからないような気がする。冷戦がいかに深刻だったか、その萌芽がどれぐらいシリアスな状態ですでに大戦当時からあったのか。そのあたりがあまり心身に刻み込まれていない私などが読んでも、なかなかにピンと来ない点も多々ありました。事件の概要についてももう少し詳しい知識が必要である。

 その程度の「国際意識」ででも、頑張ってル・カレとか読んでいたのですが、どうも私が楽しんでいたのはスパイの二重生活そのものだったような気がします。日常生活の細部の細部まで注意を払い、記憶し、毎日完璧にキッチリした勤務態度と生活を心がけ、数カ国語を操り、あくる朝にはイスタンブールにいたりモロッコにいたり、なんだか高尚な警句やらをフランス語とかラテン語とかで口走り、最高の仕立てのスーツに、きれいに巻いた傘でしょ!? あとメガネ。

 あますところなく、あの階級制度の厳しいイギリスの上流階級のお坊ちゃんたちが、ふんだんに金と脳みそとユーモアの限りを尽くして、でやってることは人を騙したり騙されたりですよ。それも国家の頂点での綱渡りですよ。楽しそうだな。いいな。でも自分が放り込まれたら三分でべろべろに酔っ払ってテムズ川に浮く。

 ダンディズム、というのともちょっと違う、ジェントルマンシップに基づかないジェントルマンたちのこそこそとしたそういうのを想像するだけでなかなか楽しい。日本で言うとスパイって「忍者」だけども、英国スパイってのはやっぱり007みたいなあの感じなんだろうな、と思った。おしゃれで、格調高くて、背広とか着てる。

 国際情勢に真っ暗なのはとりあえずおくとしても、事前に映画『裏切りのサーカス』(ル・カレのスマイリー三部作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の映画版)を見ておいたので、絵的な予習はバッチリでした。あれは主役をかのゲイリー・オールドマンが演じ、今大人気のコリン・ファースやらベネディクト・カンバーバッチやらといった英国俳優がわんさか出てきてて、もう、もう、ありがとうございますじゅうぶんでございます、と言いたくなりようなどシリアスで憂いのある演技を美しい映像で見せてくれるのでたいそう気に入ってブルーレイ買いました。でも一番かっこよかったのはゲイリー・オールドマンコリン・ファースもペネディクト・カンバーバッチもワキといえばワキなので、そこは一流どころらしくシテを立てたということなのでしょうか。MI6の一番偉い人を「C(コントロール)」っていう、とかそういう知識はね、知ってたからね。まあ、ル・カレはそれよりちょっと前にはまって、文庫になってる奴はとにかく買い集めて読んでました。新作の、ロシア人亡命者のお話も良かった。

 さて『ティンカー〜』のモデルとなったのがこのキム・フィルビー事件だということですが、まあ要する一番えらくて切れものだと思ってたスパイが、実は敵の駒だったって話で、獅子身中の虫どころか、獅子身中の胆嚢あたりがまあ虫みたいな、空恐ろしいお話なわけです。こういう物語の一番美味しいところは、それがバレそうになる瞬間だと思うのですけれども、そこを記者会見で切り抜ける、というシーンがなかなか秀逸ですばらしい。その記者会見は今でもMI6の教材としてスパイのみんなに見られているとのこと。いったいどんな会見をしたら、真っ黒な人が真っ白になれるんだろう。すごく興味ある。

 小保方さんも、佐野さんも、佐村河内さんも、そのビデオみればよかったのにね…

 

 ペテンにかけるなら命にかけて、名誉にかけてヤレ。

 

 実際、キム・フィルビーは逃げ切った。逃げ切ってソ連に行くわけですが、その後が幸せだったのかどうかは置くとして、その友人にして彼に最後の引導を渡したニコラス・エリオットの晩年の様子などをこの本から読むぶんには、二人は思う限りに戦って、満足してるみたいな気がしました。どっちが勝ったか、は二人のみぞ知る、というか、もしかしたらお互いに「オレが勝った」と思っていそうですが。

 二人の対決には多くの犠牲者がでているわけですが、中でも可哀想なのはCIAのジェームス・アングルトンだとおもう…

 

 

 

「詩的思考のめざめ」まじ良かったから早く感想書きたかった

書きなぐる。

 

いや、まじで面白かったし。

 

阿部公彦先生のファンになりました。読了の勢いでこのシリーズの前作「小説的思考のススメ」もぽちりました。

もともと、詩は嫌いじゃないです。むしろ好きなほう。小学校の時に賞をもらったり、貼りだされたりしたものはだいたい、そのあたりでした。標語とか、詩とか。読書感想文は苦手でしたが…

言葉のナマの匂いを「嗅ぐ」のなら、詩がいちばんだ、とも思う。でも、「読み方」となると甚だ、心もとない。

まあ、いいや楽しいし、で放置して約40年間。それを丁寧に、優しく、かつ易しく説明してくださっている本にようやくめぐりあい、「それな」となったわけです。

 

もっとも、「それな」なんてエラソーなことを言って、自分の脳内で起こっていた出来事は皆目説明できなかったわけですから、褒められたものじゃありません。阿部先生はほんと、多分、10人聞いたら10人が「それな」と思うように、この不可思議な「詩なるもの」を説明している。ありがた。

「小説的思考」のほうでは、「小説はそもそも分からない」と突き放す先生、詩に関しては、「詩はもともとそこにある」とひどく親密です。はじめに、にこんなことが書いてある。

おそらく私たちはどこかで、自分なりのやり方で「詩」を知っているのではないでしょうか。教わらなくても、本を読んで勉強したりしなくても、なんとなく詩の居場所に心当たりがある。気配を感じ取ったり、作用に敏感に反応したりもできる。しかし、それ以上はなかなか踏みこまない。意識化したり、言語化したりもしない。 

 これ。これなんですよ。「それな」ポイント。 さらには、詩には「入門」せず、「そこから出て行く」ことこそがいい、という視点が、キー・ノートになっています。この禅問答が最後にはちゃんと腑に落ちる、そこがすごい。

 

 詩の居場所についての説明とか、「詩は単価が高い」とか、高村光太郎の「牛」は負けゲー、とか、例えがいちいち笑える。谷川俊太郎のトリッキーを「おなたうた」で説明する。とかいって、鞄の中にも、背広の背筋にも、確固たる学識と、明晰な理論を用意されている。最強と言わずしてなんというか。語り口のキャラ立ちと言い、論じられていることはすごく難しいのに、無理せずすっと入ってくる。

 こんな講義聞いてみたいよね、と思ったら東大文学部の准教授でした。あら。20年も前にこの本に出会っていたら、血が出るほど頑張って、東大目指したかも。ほんとに。

 それぐらい。

 

ここ数日、

淡々と読んだ本について呟いてきた。私はそれほど読書家でもないし、目から鼻へ抜けるような賢さも持ち合わせていないので、たどたどしく、感覚的に、順不同に、思いついた順に、発作的に並べ書いているにすぎない。読みづらいことと思います。

 

でも、本を読むのって面白い。映画評やアニメ評、あるいはゲーム評のほうが人気はあるのかもしれない。出版会はじわじわと衰えているのかもしれない。衰えているって言っても年間2兆円規模の市場だって聞いたことがある。ぜんぜん衰えていやしないじゃないか。確かに漫画が出版業界を下支えしているらしい。本読みの中でも漫画だって本なんだという人もいる。でも、私はあくまで、文字で書いてある何がしか、にこだわる。

 

「文字の伝達力が低い」とか「映画や漫画に比べて無害」などという、文字に対する感覚が摩耗したようなことをうそぶくようにはなりたくない。

 

 

「荒木飛呂彦の漫画術」レビュー

 

目次

はじめに

 なぜこの本を書くのか

 

第一章 導入の描き方

第二章 押さえておきたい漫画の「基本四大構造」

第三章 キャラクターの作り方

第四章 ストーリーの作り方

第五章 絵がすべてを表現する

第六章 漫画の「世界観」とは何か

第七章 すべての要素は「テーマ」につながる

実践編その1 漫画ができるまで――アイディア、ネーム、コマ割りの方法

実践編その2 短編の描き方――「富豪村」(『岸辺露伴は動かない』)を例に

おわりに

 

 

 

 

 目次を見てもお分かりのとおり、荒木飛呂彦という漫画家は努力の人であり、作戦の人であり、論理の人であるなあと思う。

 彼の生み出したキャラクター「岸辺露伴」のイメージが強烈なので、なんとなく、作者もあんな感じの超天才肌なのかな、と思ってしまうのだけれども、一六歳の頃、「同い年のゆでたまご先生が『キン肉マン』でデビューし」て強い衝撃を受け、漫画を投稿するようになるものの、はじめのうちはぼつ続きだったそうです。

 

「絵柄は、大好きだった横山光輝先生の『バビル2世』の真似みたいでしたし、そもそも絵自体が下手でした」

 (第1章 導入の描き方 原稿を見もせず袋に戻す編集者)

 

と、ご自身でもおっしゃっている。今でこそ、異色の漫画家、天才肌、波紋使ってるんじゃないか、スタンドがいるに違いない――などと主にネット上などで鬼才扱いを恣にされていますが、決してそうではなかった。

 

 

 確かに連載デビュー作の「魔少年ビーティー」にはこのころの面影が少し慮れる。横山光輝テイストから抜けきれてない。それでもどこかに『ジョジョの奇妙な冒険』の面影はある。後に大成する幼児の、つるんとしながらどこか引っかかる面影のように、それはふとした表情とか、目つきとかに漂っている。

 おそらく数多の「読まれずに袋にしまわれた」兄原稿たちの屍を超え、『武装ポーカー』で手塚治虫賞を獲得したのは二十歳のころだったそうです。この作品はあの嫉妬深い手塚治虫に「これはすごく面白かった。近来にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」と言わしめたといいますが、デビュー後も荒木は「編集部に作品を持っていったとき、受け取った編集者が(中略)また袋に戻してしまう」ことを恐れ、最初の1ページをいかに描くかに苦心惨憺している。「どんなものが魅力的か、分析」する。

 

荒木飛呂彦 : 手塚治虫が褒めたことがある漫画家一覧 - NAVER まとめ

 

 本の中でも「最初の1ページをどう描くか」だけで6項もたてて言葉を尽くしている。

 思えば岸辺露伴も、天才でありながら相当な努力の人でもある。露伴は確かに荒木の分身であり、おそらく理想なんだろうなと思う。ヒロイズムについては第三章にも言及があり、荒木はそれは「孤独」だ、と書いています。己で考え、己で力を尽くす。人に頼らず、才に奢らず。うーん、かっこいい。

 

 そう。今や「鬼才」となった荒木飛呂彦もまた、デビュー後しばらくは編集者にズケズケと意見を言われていたみたいです。さなざまな局面で、厳しく指摘をされ続けても荒木が心を折らなかったのは、「明確な目標」という根幹がしっかりしていたから。それを形作ったのがアルフレッド・ヒチコックの『映画術』だというから感慨深い。ヒチコックを常に心のどこかに寄り添わせ、ヒチコックに支えられながら知恵を絞り、努力を惜しまずに頭角を表していった。

 彼の描く「スタンド」のように。 

 

 『ジョジョ』といえば数々の名言に彩られた作品ですが、荒木飛呂彦自身が名言の宝庫でもある。

 これも単に素敵な名言だけでもかなり満載の本なので、ほんとに読むといいと思います。ああ、いろいろ抜き出したい。けど…、やめとく! あとは、君が自分で読むと良い。

 

彼は砂の上を歩いてくる、海上を渡る神のように

サン=テグジュペリ『人間の土地』感想です。

 

 毎年新潮社は「新潮社 夏の100冊」というフェアをやって、別に本一冊ずつはお値段据え置きなんだけれども、まあマークを集めてささやかなプレゼントが貰えたりするのは、本屋通いが好きな方ならだれしもご存知でしょう。きいろい表紙の小冊子がついていて、一時期マスコットはパンダだった。いまはへんてこなロボに変わったらしい。

「YONDA?」ってのはなかなか押し付けがましいけれども、でも毎回名作揃いでありがたい、ある年には読破してやろうと夏じゅうせっせと文庫を買い集めては、読了したら小冊子に銀のシールを貼ったりしてましたが、あんがい読めないものです、7・8月トータルでせいぜい頑張ったところで20冊くらい。おさいふもそれぐらいになると2万円くらい掛かっており、そのくせ本は文庫ばかりが増えるので、やめてしまいました。しばらくやめていたけど、今年は「さてはて、何がラインナップされているかのう 一冊ぐらいかってみるか」といったゆるい感じで手を出してみた。

 

 サン・テグジュペリにはすこしばかり因縁と、思い入れがある。

 ひょうきんで三枚目なキャラクターで、いまでも時折、まるで幼児みたいな私の父が、母とのお見合いデートの時に、「どんな本を読みますの?」という質問の答えとして、「サン=テグジュペリなどを愛読します」と答えたとか、答えないとかいうのである。『星の王子さま』しか知らなかった頃はなんて口説き文句だずるい! なんて思っていたけど、我が父は航空関係のエンジニアで、そういう視点でならまあ、分からなくもない。ヒコーキ乗りの話のほうだな。

 

星の王子さま』では主人公は、サハラ砂漠での散々な不時着のあと、一人のすてきな少年と出会うけれども、この「人間の土地」のクライマックスは名も知れぬ、「あらゆる人間の顔」をしたリビア人が現れる。とにかくこの本、いろいろ素敵なエピソード満載なんだけど、「砂漠のまん中で」で描かれる、読んでるこっちもカラカラになりそうな、不時着先の砂漠での数日間の描写が秀逸なのだ。

「人間を、十九時間で、干物にしてしまう西風が吹いている。ぼくの食道は、まだしめきられてはいないが、こわばって痛い。何か掻きむしるようなものが、もうそこには感じられる。やがて話に聞いている、あの咳が始まるはずだ。ぼくは待っている。(中略)この斑点が、炎に変る時が、いよいよぼくの倒れる時だ。」

 オアシスに期待しては裏切られたり、幻聴や幻覚を聞いたりしながら、砂漠の上をふらふらと彷徨う、主人公テグジュペリとプレヴォーの姿が哀れすぎる。この本が残っているんだから助かってるんだろうなおい…!? と途中でやきもきする。助けに巡りあい、水を飲む二人の描写もすさまじい。水を数行にわたって神格化してる。

 こういう冒険を経験した人間として、「人間の本然とは」ということを作者は考える、「虐殺されたモーツァルト」に心なやませる。冒険や、死ぬほどの苦労は確かに人間のある才能を開花させるに違いないし、そのときからおそらく人は、いままでとは全く違う、縦にも横にも広い世界のなかに放り出されるのだろう、が…。

 ちぇ、冒険野郎め、君子は危うきに近寄らずに、その境地に到達したいと思うんだけれども、それじゃやっぱり、甘いのかな。

マッドマックス 怒りのデスロードの世紀末描写について思いを馳せる

見てきました。

 

邦題のハデハデ感に対して、原題は「Fury Road」とわりかしそっけないようですが、意味は「激怒の道」とかそんな感じですかね。80年台の日本の漫画っぽくて、ぴったりの邦題だと思う。

 

日本人にとっての「核戦争以降」といえば『北斗の拳』とか『アキラ』あたりのイメージなのでしょうが、アメリカ人は割りと水・石油・食べ物に対してシビアな視線を持っています。最近私が触れたそういう終末を描く作品だとたとえば『第六ポンプ』的な世界観、石油だろうが架空の第三の燃料だろうが、あるいは人力だろうが、人は常にそういうものに悩まされ、縛られている。大量生産・大量消費の旗手たるアメリカのこれもまたひとつの神話みたいなもんなのでしょうか。そのくせガソリンの引火性とかちょっとあまく見積もり過ぎなような気がしなくもないし、いったいどれだけ時間がたったのか知りませんが、核以降の不毛さはなんか違うような感じもする。人々が異形になってしまうのがひとえに核のせい、というのもへんな気もするし、どっちかというともっと複合的な汚染によるんじゃないかななんて思ったりもする。細菌とか。

 

本筋のストーリーはあくまで氷山の一角で、むしろ映画ではかけらも語られてない沈んでるところ含めて作品なのだ、崇め奉れ! というマニアックなつくりが最近のハリウッドの流行なんでしょうかね? そういう姿勢は個人的にはいけすかねーなー、と思うのですが、オタクはオタクの心を知る、とでもいうのは、オタク受けは日本でも良いようです。なんか、公開前にいくつもコミックが発売され、登場人物たちのサイドストーリーが語られた上での上映だったようなんですよね。えーアメリカンずるい そんな面白そうな供給があったのかよ! ってなる。そんなことされちゃ知りたいじゃんか。

 

「びっくりするほど中身が無い」「全編にわたってどんぱちとカーチェイス」ってのはあくまで「本編」の話で、映像内にちらちら仕組まれてる役者のメイクから動き、服装、名前の裏の意味、脚本には反映されてない裏ストーリー…が作りこまれているからそういう事情が分からなくてもなんとなく収まりの悪い、クラクラめまいがするような後味で、「もう一回見たら解るかも!?」なんて思わせぶりになるのでしょう。

 でも、役者さんが「シナリオの外の膨大な物語を了解している」とか「アイテムの一つ一つにまで世界や歴史が詰め込まれている」ってすごく素敵なことで、そういうのがあるのとないのとじゃ、やっぱり見た時の感動は違うもんです。違うもんなんですよ。バックグラウンド大事。

 

あ、これなんかに似てるわ、と思ったら『パシフィック・リム』っぽいんだよね。

 

はるか未来の、荒廃した我らの子孫が、かつての輝かしい文化を尊重し、神格化しながら、野蛮な生を生きているーーそういう文脈は大衆的に消費されがちだけど、そこについてはアホらしい、ってのと、なんか切ない、ってのが同居しています。なんか「現代至上主義」っぽいおごりだな、とシニカルにもなるし、子孫たちのことを思って奇妙なノスタルジーに包まれたりもするんだよね。客体としてみるか、もっとずっぷり、主観を重ねて見るか、の違いだけだけれども。

 

読了本めも:『リリエンタールの末裔』

上田先生がキンドル版だめって言うはずない! って

 

上田早夕里のSFの根本的なところに、「人類の科学技術に対する敬意と愛着」がありますよね。

たとえ不気味な「ルーシー」になっても、第2の脳を宇宙の遥か彼方に飛ばす羽目になっても、それによって滅亡が待っていても、人類が自然に対して果敢に挑戦していくこと自体をいとおしんでいる、というか。

「華竜の宮」後の短篇集ということで、そういう観点はこの本にも随所に見られます。自然や過酷な状況に立ち向かうために投薬を続けた末に背中から変な腕が生えちゃった民族とか、科学技術との融合の末に非凡な感覚を手に入れてしまった男とか、そういう人を肯定的な目で捉えて描いているところが、いい。

 人類の科学技術に対する安易なペシミズムがなく、それでいてその行く末を見つめる目は冷静、史実とファンタジーをさり気なく融合し、短編でも惜しげなく魅力的なキャラクターを投下してゆく、なんていう、なんて真摯な語り手なんでしょう。

 大人のSFってこういうことだよな、と思った次第。