日月星辰ブログ

Vive hodie.

コミュ力じゃねえよ

よく、差し向かいでご飯を食べている時とかに目の前でスマホを見られます。脱兎です。

あれをやられると自分の至らなさに打ちひしがれます。あー、退屈させてんだな、と思います。じっさい退屈そうによくされます。普通、もっとこう、ひとと合っているときはお互いに盛り上げよう盛り上げようと努力するものなのかしら。

それをやられたからといって、やってるひとにつけつけと意見をすることも出来ません。だって、私が至らなくてつまらないんだもの。誰も止めることなんか出来ないはずです。おっさんが「最近の若いものは、人とあっていてもスマホに夢中で」という場合、おっさんの長い話が彼らを退屈たらしめているに違いありません。だから、むしろ苦言を呈するのは「俺の話は長い」と白状しているようなものである。苦言を呈するだけすでに敗北している。

といって、自分自身がずっとテンション高いというのがうざいので、私としては目を細めて斜め四十五度あたりから黙って見守り続けたいのですが、正直私と一緒にいて退屈だというのならば早めに会合を切り上げるべきだとも思います。ぼくは馬じゃないから、黙って頸をうなだれて、主の言葉に耳を傾けることは難しいのです。

そういえば小学生・中学生の頃に「二人組になって」と言われるのが本当にいやでした。五人組の一人に入るのはまあ、なんとかなる。三人組もそれほど苦ではない。二人組となると困る。誰かさんの「一番の友人」みたいなのにはあまりなれない。それから、お弁当とか給食の班もだめです。「お弁当の時は自由に友達と食べてね」というのはいったい何の方便なのか。かといって強制班もいやなものです。

おとなになると、ご飯を誰かと一緒に食べなくても別に非難されたりしないので、とても生きやすいと思います。もし、小中高生で未だ誰かとご飯を食べなくてはならない境遇にいる人には、「あと三年、我慢しなさい」と教えてあげたいです。三年、がまんすればそんな不自由なことはしなくても誰も何も言わなくなります。三年の間は、学校の屋上か、人気のいないところで堂々と一人でおやんなさい。ただ便所はだめです。みじめな気分だけは持ち込んではならない。青空と対話しながら、雄大一人飯をするのだ。外が確保出来なければ、文庫本でも持ち込んでどこかの特別教室などに行きなさい。それが頑迷で無知な担任に阻まれ、許されなければ、教室で一人でもよい。大人はレストランで一人で飯を食べます。大丈夫です。

だいたい友達愛信仰が行き届きすぎていて、それで自殺をするぐらいなら一人で生き延びたほうが千倍も偉大なのに、どうして「コミュ力」とかなんとか、人脈形成能力ばかりが評価されるのかわかりません。