日月星辰ブログ

Vive hodie.

高名な政治家でも評論家でもなくとも殺される

先だって起こった新幹線の刺殺事件もそうだけども、ちちゃーい私利私慾で簡単に人を刺す人がいるって終わってないか。

 

いやまだ「利」のために人を殺す、「欲」のために人を殺すなら分かる。私は新選組だってテロリストだと思ってるぐらい、大義やら理ですら、人殺しの理由にはならないと思っているけれども。

 

保険金殺人。横恋慕殺人。まではまあ、人間として百歩譲らなくもない。

 

新幹線の話も、福岡の話も、全然違うじゃん。全然。

何かわけのわからない、誰かの頭の中で肥大した利己的な憎悪によって、人が殺される。

 

かつて、社会党の浅沼党首が刺殺された。あれはまあ、暗殺だ。

マスコミの眼前で豊田商事の会長が殺された。

あれは遺恨だ。

どちらも許すべからざる犯罪であることには変わりないが、もう最近の事件のわけわからなさに比べれば、まだ理解できる。

 

ルサンチマンに凝り固まった人間が、普通の人間を殺すんだな、最近は。

 

追記:彼は炎上職人だった 弱者を時に追い詰めた というふうな言説を見かけたのでちょっと書いておくけど 本当の弱者になんて寄り添えませんよ 少なくとも社会的に普通に暮らしていける人間は 多分。

 自称だろうが本当に、だろうが引きこもりで、自分のことばかり考えていて、「追い詰められた」と勝手に思っている人に、本当に寄り添えるのかな。

誕生日だし、このところ読み直してみてコンスタントに何かを書き続けるということに価値を見いだしたし

 前からまた年単位で開いてしまった。

 しかし今回は続きそうな気がする。

 

 ブログを改めて振り返ってみたところ、2004年から書いていることが分かった。ブランクを含めてかれこれ15年も書いている。

 15年!

 私の義理の妹は、生まれた子供の成長日記を長女の0歳からこつこつ続けている。一番としかさの姪っ子がそろそろ12歳だという。忙しい子育ての中でそれができている。それはきっと、かけがえのない、立派な記録になっている。もちろん、家族以外には見られないパスワード制ではあるものの、写真も豊富で、面白い。12年。あと同じだけ続ければブログスタートのきっかけとなった女児は妙齢の女性だ。結婚式の時か何かにこの手記(って手では書いてないですけど)をさずかろうものなら、私が女児なら泣いてしまう。りっぱなものだ。

 

 彼女の日記を見ていると、子供というのは日々進化・成長し、一時も同じものたろうとはしていないことがよく分かる。写真一つとっても一日一日で全く違う。出来事も毎日、違う。子供である、ということそのものが、相当にクリエイティブでエキサイティングなものであることがよくわかる。人間、30を過ぎると意識を保ちでもしないかぎりはそれほど成長も変化もしなくなってくる。とはいえ、大人だって、十年一日、ただ年を取るだけ、というのはあまりに情けない。

 そこで、ブログを再開することにした。大人は子供と違って、日々面白いことや新しいことを見つけるには努力が必要である。すこしの変化も見逃さない耳目、新しいことを探そうという意欲、そしてそれを自覚していく意識が必要だ。

 かきものというのは、さしあたってそのあたりを残すことのできる唯一の手段である、と考える。日々の微細ながらに成長していく。死ぬまで、というのが不惑を過ぎてようやく見いだした人生の目標のような気がする。

 

 ちょうど今日、誕生日だったので、そういうわけで筆を執る。

 取材ものでもいいし、ちょっとした研究論文でもいい。その場その場でよしなしごとを。なるべく頻繁に。

 

 さしあたって、今年から毎年、誕生日にどんなことが起こったのかを書き残していこう、という決心をした。「起こったこと」は日常の些細なことを、意識の流れ形式で書き付ける、ということではない。ほんとに、単純に、その日フォーカスされたニュースを書き記しておこうと思う。

 あとになってから縮刷版なんかで確認したって良いんだけれども、その時の私の耳目に入ったかどうか、は縮刷版では分からない。

 書いとかなきゃ、分からないのである。

 

 1、台湾でM6.0の地震。現地時間6日23時50分だそうだが、日本時間では7日0時50分だから、今日の事件としておく。花蓮県。台湾北部の沿岸部だそうである。

 ホテルが倒壊し、2名が死亡した、とニュースにはある。その日のうちに募金を呼びかける声がTwitterで拡散する。

 2、株価の暴落と買い戻し。あまり我が身には関係はないが、興味深いニュース。暴落の原因はちょっとしらべただけでは全然分からない。米の動きに合わせて日も下がったり上がったりしているようだが、人々が右往左往しているだけ、というような気もして、ちっとも同情できない。イナゴ体質でないとデイトレードはむつかしいのかもしれない。

 3、福井県で大雪が降っている。降雪量は1メートルを超えるらしい。車が埋まったとか、電話ボックスが半分埋まったとか。電話ボックス…10年後もまだ存在しているかどうか分からんな…。餃子の王将からチャーハンが配られたとか。災害と助け合いは、2010年代のひとつのトレンドだと思う。不謹慎を承知であえて言えば。

 

 ほかにも細かい事件はあるけど、こんなところが印象深かった。来年もやってみると、面白いかもしれない。

 

 観測史上初とかそういう言葉が踊りがちな今冬である。寒波が相変わらず居座って、マイナスの気温になる日々。

地続きの民俗学

他にかきなぐるところがないから、ここに書きますね。

 

こないだ、成人の日のお休みを利用して大阪の国立民族学博物館に行ってきました。

 

東のトーハク、西のみんぱく…と言われてるかどうかなんて知りませんが、国立の民族学博物館でもおそらく最大にして大人気。場所は万博記念公園と遠めですが、きっと関西のちびっこなら一度は両親に手を引かれて行ったことがある、そんな施設。

 

この「みんぱく」のユニークかつ、東のトーハクとちょっとちがうところは、展示物と我々の暮らす日常の時空が地続きにつながっているところだと思います。

 普通に、「採取年、2000年頃」みたいな民俗学標本(まあ、標本、といわなければ下手するとただの人んちにあるなにか)が丁寧かつ体系だって展示されていて、たとえば「タイのインスタントラーメン」やら「台湾の屋台カー」やら、という中に、岩手遠野「オシラサマ」とか、チベット仏教祭壇、僧侶のお守り などなどが飾られているのです。日本各国の祭のあれこれがぎっしりと並んでいる部屋に入ってみると、アフリカやアメリカのまじない道具や祭祀の飾りなどとさほど違っているように見えない。当分に並べれば、どれも守られ続ける地球の何処かの国の「伝統文化」であることには違いない、文明主義的な文化的優劣序列やら、レイシズムやら、ぶっ飛ぶクラスのフラットな、学術的な展示にはちがいない。

 まあ、そういうみんぱくの「北国オセアニア」の展示の一角に、アイヌの風俗展示もあるのです。

 昨年6月ごろから、漫画「ゴールデンカムイ」に音を立ててなだれ込むようにハマり、貪るように読みすぎてつい沼っているさなか、とうぜん「みんぱくでもいくか」というのもそういう動機からおうかがいしたわけですが、なんというか、このみんぱくアイヌ展示も、タイのラーメンやら韓国の漫画同様、現代とあくまで時空的に地続きであったことに、ひそかに感動したわけです。

 

 私は母がかつて道民で、といってもそのルーツを聞いてみると、母方の祖父は東北で教員に採用されたにもかかわらず、多分仕事の口がたまたまあったからぐらいの動機でサクッと北海道に赴任した、というようなもので、いわゆるところの「シサム」。アイヌについてもそれほど詳しいわけではなく、せいぜいが家にあの、アイヌの夫婦をかたどったこけしがあったなあ、ぐらいのもので、つくづく話してみるまではそれほど「ふるさと」に思い入れもなかったようです。まあ一代で「父の転勤についてった」家族にふるさともなにもないわな。

 だからというわけでもないですが、当然、アイヌ文化についての私の知識は、限りなくゼロに近い。ナコルルとか、大神のオキクルミだとか、たまにオタク世界の私の視界の端っこを彼らはさっとかすめて通り過ぎていって、アトゥッシの渦模様を残像に残してく、ぐらいの関わりでした。つまり、ずぶの素人ってわけです。

 そんなくらいのにわかファンにもやさしい「ゴールデンカムイ」で、やれ「ヒンナ」だの「チタタプっていえ」だの「オソマじゃないだろうな」だのを覚えて、北海道に行って白老*1やら、旭川*2やらを訪ね歩き、羆の缶詰を買っては食べ、渋谷にユクを食える店があると聞きは赴きしていたのですが。

 

 \\「ゴールデンカムイアイヌ文化展 都内開催」//

 

 いかいでか。

 

 しかも初日は監修担当・中川裕先生*3によるトークショーもあるというではないですか。平日火曜日だったけど行った。有給取って行った。

 

 監修者の立場から、「ゴールデンカムイ」で登場するアイヌ文化の描写や豆知識、それらが有機的にいかに作品のストーリーと結びついているか、さり気なく絵で説明されているものがリアリティを保ちながらもフィクショナルな「飛躍」を遂げているか、というところ、を自らも「専門家」の視点からお話しされているのですが、まずもって、中川先生こそファンでしょ?! っていうぐらい着眼がもうファンでした。「くぅー、ここにグラバーをこう持ってくるか!」「このフチのせりふ、泣かせるねえ。にくいねえ」(意訳)というぐらいのファントークで、聞いてて同じファンとしてとても幸せでした。

 そんな中でも中川先生が度々いろいろ言葉を変えておっしゃっていたことで印象的だったのが、「リアリティ」に対する肌感覚のことでした。

 なぜ、冒頭で「みんぱく」の話を持ち出したかというとここにつながってくるわけで、ここらあたりでねえ、キティ聞いてよ、となるわけですが、かつて話を収集したおばあちゃんが子供の頃にお父さんからおそわった、「お前でも出来るうさぎのとり方」の話とか、シナの木の皮で作ったタルという「背負紐」の額を当てるところに毛糸が縫い込んであることとか、「現役猟師も使ってる鹿笛の吹き方とその音色」とか、全てがなんというか、人肌のぬくもりがある。

 民俗学って、ほんとはそういうもののはずなのに、いつしかなんとなく、学問の、敷居の高い、ガラスケースのイメージがついついてしまっているところに、人の手の脂がほのぼのと滲んでいるような、毛糸ですよ。そういえば、「タル」の長さは使う人の身長の1.5倍、などという話もありました。それを使っていた人の背丈、額の汗、髪の油… ひょっとすると危ないことがあって、じわりと脂汗をにじませたかもしれない。マキリを握る手を湿らせて、心臓をどくどく言わせながら、じっとしゃがんだこともあったかもしれない。

 「みんぱく」発行の「月刊みんぱく」の2016年11月号には、「ゴールデンカムイ」の作者・野田サトル先生のコミックエッセイが載っています。その中で先生ご自身が「キャラクターが走り出す」と書いていましたが、きっと先生がみた「走り出す」は私がそこから想像するようなかるーいもんじゃない。本当に、息せき切って、小さな身体をほかほか温めて、アシリパさんが走っていく。見慣れないけど、たしかに彼女の手垢の染みた、生きた道具たちを携えて、鹿革の靴の足音をさせて。

 こんにちは、って入っていったお友達の家に見慣れないものがかかっている。「アレはうちの家にはないけど、ここの子たちはあれで遊ぶんだろうな」とか、「ああ、このうちにはアレがあるんだな。ということはこういうおやつを食べてるんだろうな」とか。昔々、子供の頃によそんちに遊びに行ったときに感じたあの何とも言えないワクワク感。小さな小さな異文化体験と、その「文化」が確実に、ありふれた現実と地続きに広がっている、という感じ。

 異文化なのに、ありふれてる。でもそれが「ありふれていること」そのものにワクワクする、上手く言えないけど、そんな感じ。すぐとなりに背中合わせに広がっている「よく知らない世界」。

 あなたの知らない世界の話だけど、「これは確実に今日まで道の続く、地続きの文化なんですよ」と先生は言外に何度かおっしゃった、ような気がしている。先生がかつて証言を収拾してきたアイヌの人たちは、だいたい漫画の中のアシリパさんとか、オソマちゃんとかと同じぐらいの人たちだという。中には入れ墨を口に施し、古い北海道弁を離す「フチ」もいらっしゃったそうだ。

 ところでアイヌ史の中で、「男性の耳輪と、女性の入れ墨に対する禁止令」が日本政府によって公布されたことについても、話題に出た。

 中川先生はそのなかでこうおっしゃった。「この法律が廃止された、という話は聞かないですから、ってことは今でも北海道では、男のピアスは禁止、ってことになりますよね」

 ちょっとシニカルなこの話も、「今の時空との地続き感」を妙に感じさせるエピソードだった。

 

 …ところでそんな「日本国」ですが、どうも内閣府肝いりでアイヌ文化を盛り上げよう、という動きになっているらしい。以前新聞にも載ってた。2020年までに白老に「象徴空間」をつくるそうです。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/pdf/kousou20160726.pdf

 アイヌたちがうれしいのかどうかは当事者でないから知らないけれど、すくなくとも「イランカラプテキャンペーン」は内閣府アイヌ政策推進会議からお金が出ているそうで、今回私はその恩恵に預かった、ということになる。

 国を挙げてのキャンペーンに「ゴールデンカムイ」みたいな尖った漫画が使われている、というのもなにやらユーモラスだが、その点は素直に恩恵を受けておきたい。政治の話はまあ、うん ね。

 

 最後にまあやっぱりこれは貼っておく。とてもいいまんがです。

*1:白老ポロトコタン

*2:川村カ子トアイヌ記念館

*3:ブログタイトルに「民俗学」ってもろに書いちゃったけど、中川先生は言語学者だそうです

わたしを離さないで

すごい話だな、と思った。

 

 

 未読の方はどこでもいい、書店に飛んでいってすぐ読むといい。カズオ・イシグロに純文学作家みたいな思い込みがあるのだとしたらもったいない。

 時代は30年ほど前。国はイギリス。…だけど、設定はSF。

 もう少しきちんと読み込まないと的を外している点もあるかもしれないけど、冷戦後であろうことはなんとなくわかる。「語り手」の社会常識が偏っているから、ソ連がどうなっているのかが今ひとつはっきりしない。

 語り手は発話時点では30前後らしいので、物語の大半はそれより更に前に遡るわけだけれども…、(60年代後半から、70年代くらいまでにかけての年表を思い描きながら読めれば、もっと楽しめると思われる。多分)そういう時代に、こういう物語がリアルにあったら… と思うとちょっとゾッとする。

 英国ならさもありなん、と思わせるところもたくさんありながら、日本のどこかでこういうことが起こっていても不思議ではない、と思わせる何かがある。アメリカも。ソ連も。中国も皆然り。それぞれ哲学やスタンスは違えど。

 これが、もしあの時代だったらあちら側の国のファンタジーになっていたかも知れないし、未来を舞台にすれば、近未来でも、遠目の未来でもまあ広義の「ディストピア」小説ということになるのかもしれない。でも、この作品のグロテスクなところはそれをほかならぬ20世紀後半の話として語っているところだ。

 …あまりしゃべり散らすとどの文脈、どの一言、どの単語の響きから“ネタ”が漏れるかわからない。漏れたが最後、多分作品の既読者で、この作品からイシグロニアン(なにそれ)になったんだーという人に後ろから刺されるかもしれない。新月の夜は特に注意しなければ。だからこれぐらいにしておく。

 

 もっともカズオ・イシグロは1作ごとに作風がかなり違う。意図的に変えているらしい。だからこの作風が好きでも、最高だと思っても、次のイシグロ作品はおそらく同じテイストではない。

 でもきっと、これよりもっとすごいものを出してくるにちがいない。

 

童貞王

 国書刊行会はとにかく装丁が素晴らしい。

 

 解説によれば、人物はそれぞれ、実在の人物にモデルがいる。狂王ルードヴィヒ2世が清らかな美青年として描かれるほか、「グロリアーナ」という歌姫も、リジという王の幼なじみも、それぞれ実在のモデルがいるそうな。作中、「ハンス・ハマー」というなんとなく「鈴木太郎」っぽい感じの名前になってる音楽家が、ワグナーらしい。

 実際にスキャンダルや政治闘争を別名に仮託して作家が描くときには、その目的が風刺だったり、体制批判だったりすることが多いのだろうけど、この作品については狂王と呼ばれたルードウィヒ2世の擁護とも取れるように思える。聖杯伝説やユニコーン伝説を例に出さずとも、ヨーロッパでは童貞も処女も崇高かつ、なにかしらの魔力を伴うようであるから。