日月星辰ブログ

Vive hodie.

地続きの民俗学

他にかきなぐるところがないから、ここに書きますね。

 

こないだ、成人の日のお休みを利用して大阪の国立民族学博物館に行ってきました。

 

東のトーハク、西のみんぱく…と言われてるかどうかなんて知りませんが、国立の民族学博物館でもおそらく最大にして大人気。場所は万博記念公園と遠めですが、きっと関西のちびっこなら一度は両親に手を引かれて行ったことがある、そんな施設。

 

この「みんぱく」のユニークかつ、東のトーハクとちょっとちがうところは、展示物と我々の暮らす日常の時空が地続きにつながっているところだと思います。

 普通に、「採取年、2000年頃」みたいな民俗学標本(まあ、標本、といわなければ下手するとただの人んちにあるなにか)が丁寧かつ体系だって展示されていて、たとえば「タイのインスタントラーメン」やら「台湾の屋台カー」やら、という中に、岩手遠野「オシラサマ」とか、チベット仏教祭壇、僧侶のお守り などなどが飾られているのです。日本各国の祭のあれこれがぎっしりと並んでいる部屋に入ってみると、アフリカやアメリカのまじない道具や祭祀の飾りなどとさほど違っているように見えない。当分に並べれば、どれも守られ続ける地球の何処かの国の「伝統文化」であることには違いない、文明主義的な文化的優劣序列やら、レイシズムやら、ぶっ飛ぶクラスのフラットな、学術的な展示にはちがいない。

 まあ、そういうみんぱくの「北国オセアニア」の展示の一角に、アイヌの風俗展示もあるのです。

 昨年6月ごろから、漫画「ゴールデンカムイ」に音を立ててなだれ込むようにハマり、貪るように読みすぎてつい沼っているさなか、とうぜん「みんぱくでもいくか」というのもそういう動機からおうかがいしたわけですが、なんというか、このみんぱくアイヌ展示も、タイのラーメンやら韓国の漫画同様、現代とあくまで時空的に地続きであったことに、ひそかに感動したわけです。

 

 私は母がかつて道民で、といってもそのルーツを聞いてみると、母方の祖父は東北で教員に採用されたにもかかわらず、多分仕事の口がたまたまあったからぐらいの動機でサクッと北海道に赴任した、というようなもので、いわゆるところの「シサム」。アイヌについてもそれほど詳しいわけではなく、せいぜいが家にあの、アイヌの夫婦をかたどったこけしがあったなあ、ぐらいのもので、つくづく話してみるまではそれほど「ふるさと」に思い入れもなかったようです。まあ一代で「父の転勤についてった」家族にふるさともなにもないわな。

 だからというわけでもないですが、当然、アイヌ文化についての私の知識は、限りなくゼロに近い。ナコルルとか、大神のオキクルミだとか、たまにオタク世界の私の視界の端っこを彼らはさっとかすめて通り過ぎていって、アトゥッシの渦模様を残像に残してく、ぐらいの関わりでした。つまり、ずぶの素人ってわけです。

 そんなくらいのにわかファンにもやさしい「ゴールデンカムイ」で、やれ「ヒンナ」だの「チタタプっていえ」だの「オソマじゃないだろうな」だのを覚えて、北海道に行って白老*1やら、旭川*2やらを訪ね歩き、羆の缶詰を買っては食べ、渋谷にユクを食える店があると聞きは赴きしていたのですが。

 

 \\「ゴールデンカムイアイヌ文化展 都内開催」//

 

 いかいでか。

 

 しかも初日は監修担当・中川裕先生*3によるトークショーもあるというではないですか。平日火曜日だったけど行った。有給取って行った。

 

 監修者の立場から、「ゴールデンカムイ」で登場するアイヌ文化の描写や豆知識、それらが有機的にいかに作品のストーリーと結びついているか、さり気なく絵で説明されているものがリアリティを保ちながらもフィクショナルな「飛躍」を遂げているか、というところ、を自らも「専門家」の視点からお話しされているのですが、まずもって、中川先生こそファンでしょ?! っていうぐらい着眼がもうファンでした。「くぅー、ここにグラバーをこう持ってくるか!」「このフチのせりふ、泣かせるねえ。にくいねえ」(意訳)というぐらいのファントークで、聞いてて同じファンとしてとても幸せでした。

 そんな中でも中川先生が度々いろいろ言葉を変えておっしゃっていたことで印象的だったのが、「リアリティ」に対する肌感覚のことでした。

 なぜ、冒頭で「みんぱく」の話を持ち出したかというとここにつながってくるわけで、ここらあたりでねえ、キティ聞いてよ、となるわけですが、かつて話を収集したおばあちゃんが子供の頃にお父さんからおそわった、「お前でも出来るうさぎのとり方」の話とか、シナの木の皮で作ったタルという「背負紐」の額を当てるところに毛糸が縫い込んであることとか、「現役猟師も使ってる鹿笛の吹き方とその音色」とか、全てがなんというか、人肌のぬくもりがある。

 民俗学って、ほんとはそういうもののはずなのに、いつしかなんとなく、学問の、敷居の高い、ガラスケースのイメージがついついてしまっているところに、人の手の脂がほのぼのと滲んでいるような、毛糸ですよ。そういえば、「タル」の長さは使う人の身長の1.5倍、などという話もありました。それを使っていた人の背丈、額の汗、髪の油… ひょっとすると危ないことがあって、じわりと脂汗をにじませたかもしれない。マキリを握る手を湿らせて、心臓をどくどく言わせながら、じっとしゃがんだこともあったかもしれない。

 「みんぱく」発行の「月刊みんぱく」の2016年11月号には、「ゴールデンカムイ」の作者・野田サトル先生のコミックエッセイが載っています。その中で先生ご自身が「キャラクターが走り出す」と書いていましたが、きっと先生がみた「走り出す」は私がそこから想像するようなかるーいもんじゃない。本当に、息せき切って、小さな身体をほかほか温めて、アシリパさんが走っていく。見慣れないけど、たしかに彼女の手垢の染みた、生きた道具たちを携えて、鹿革の靴の足音をさせて。

 こんにちは、って入っていったお友達の家に見慣れないものがかかっている。「アレはうちの家にはないけど、ここの子たちはあれで遊ぶんだろうな」とか、「ああ、このうちにはアレがあるんだな。ということはこういうおやつを食べてるんだろうな」とか。昔々、子供の頃によそんちに遊びに行ったときに感じたあの何とも言えないワクワク感。小さな小さな異文化体験と、その「文化」が確実に、ありふれた現実と地続きに広がっている、という感じ。

 異文化なのに、ありふれてる。でもそれが「ありふれていること」そのものにワクワクする、上手く言えないけど、そんな感じ。すぐとなりに背中合わせに広がっている「よく知らない世界」。

 あなたの知らない世界の話だけど、「これは確実に今日まで道の続く、地続きの文化なんですよ」と先生は言外に何度かおっしゃった、ような気がしている。先生がかつて証言を収拾してきたアイヌの人たちは、だいたい漫画の中のアシリパさんとか、オソマちゃんとかと同じぐらいの人たちだという。中には入れ墨を口に施し、古い北海道弁を離す「フチ」もいらっしゃったそうだ。

 ところでアイヌ史の中で、「男性の耳輪と、女性の入れ墨に対する禁止令」が日本政府によって公布されたことについても、話題に出た。

 中川先生はそのなかでこうおっしゃった。「この法律が廃止された、という話は聞かないですから、ってことは今でも北海道では、男のピアスは禁止、ってことになりますよね」

 ちょっとシニカルなこの話も、「今の時空との地続き感」を妙に感じさせるエピソードだった。

 

 …ところでそんな「日本国」ですが、どうも内閣府肝いりでアイヌ文化を盛り上げよう、という動きになっているらしい。以前新聞にも載ってた。2020年までに白老に「象徴空間」をつくるそうです。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/pdf/kousou20160726.pdf

 アイヌたちがうれしいのかどうかは当事者でないから知らないけれど、すくなくとも「イランカラプテキャンペーン」は内閣府アイヌ政策推進会議からお金が出ているそうで、今回私はその恩恵に預かった、ということになる。

 国を挙げてのキャンペーンに「ゴールデンカムイ」みたいな尖った漫画が使われている、というのもなにやらユーモラスだが、その点は素直に恩恵を受けておきたい。政治の話はまあ、うん ね。

 

 最後にまあやっぱりこれは貼っておく。とてもいいまんがです。

*1:白老ポロトコタン

*2:川村カ子トアイヌ記念館

*3:ブログタイトルに「民俗学」ってもろに書いちゃったけど、中川先生は言語学者だそうです

あけましておめでとうございます

たった5回ほど前にもそう書いてあるという非活性ブログです  いっそあけおめだけ言ってくブログというのも新しいかもわからんですねf:id:lubu:20170101113107j:image

わたしを離さないで

すごい話だな、と思った。

 

 

 未読の方はどこでもいい、書店に飛んでいってすぐ読むといい。カズオ・イシグロに純文学作家みたいな思い込みがあるのだとしたらもったいない。

 時代は30年ほど前。国はイギリス。…だけど、設定はSF。

 もう少しきちんと読み込まないと的を外している点もあるかもしれないけど、冷戦後であろうことはなんとなくわかる。「語り手」の社会常識が偏っているから、ソ連がどうなっているのかが今ひとつはっきりしない。

 語り手は発話時点では30前後らしいので、物語の大半はそれより更に前に遡るわけだけれども…、(60年代後半から、70年代くらいまでにかけての年表を思い描きながら読めれば、もっと楽しめると思われる。多分)そういう時代に、こういう物語がリアルにあったら… と思うとちょっとゾッとする。

 英国ならさもありなん、と思わせるところもたくさんありながら、日本のどこかでこういうことが起こっていても不思議ではない、と思わせる何かがある。アメリカも。ソ連も。中国も皆然り。それぞれ哲学やスタンスは違えど。

 これが、もしあの時代だったらあちら側の国のファンタジーになっていたかも知れないし、未来を舞台にすれば、近未来でも、遠目の未来でもまあ広義の「ディストピア」小説ということになるのかもしれない。でも、この作品のグロテスクなところはそれをほかならぬ20世紀後半の話として語っているところだ。

 …あまりしゃべり散らすとどの文脈、どの一言、どの単語の響きから“ネタ”が漏れるかわからない。漏れたが最後、多分作品の既読者で、この作品からイシグロニアン(なにそれ)になったんだーという人に後ろから刺されるかもしれない。新月の夜は特に注意しなければ。だからこれぐらいにしておく。

 

 もっともカズオ・イシグロは1作ごとに作風がかなり違う。意図的に変えているらしい。だからこの作風が好きでも、最高だと思っても、次のイシグロ作品はおそらく同じテイストではない。

 でもきっと、これよりもっとすごいものを出してくるにちがいない。

 

童貞王

 国書刊行会はとにかく装丁が素晴らしい。

 

 解説によれば、人物はそれぞれ、実在の人物にモデルがいる。狂王ルードヴィヒ2世が清らかな美青年として描かれるほか、「グロリアーナ」という歌姫も、リジという王の幼なじみも、それぞれ実在のモデルがいるそうな。作中、「ハンス・ハマー」というなんとなく「鈴木太郎」っぽい感じの名前になってる音楽家が、ワグナーらしい。

 実際にスキャンダルや政治闘争を別名に仮託して作家が描くときには、その目的が風刺だったり、体制批判だったりすることが多いのだろうけど、この作品については狂王と呼ばれたルードウィヒ2世の擁護とも取れるように思える。聖杯伝説やユニコーン伝説を例に出さずとも、ヨーロッパでは童貞も処女も崇高かつ、なにかしらの魔力を伴うようであるから。

 

「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」

あれ? これあれ、初めのバーニィさんも怪しいよね?

 

「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」が面白かったのでこれはディック祭りをしようかな、と思って次はこれだ、と選んだのが本作です。なかなかいい選択だったと思う。

 ディックはねー、何を書いてもネタバレになるからねー、などと脳内大学生さんがほざいているが、本作およびアンドロイドについてはそうだねそのとおりだねというかんじ。伝説的な作品でファンも多いけど、あらすじについてさかしらに語っている人ってあんまりみないよなあ…なんでだろうなあ… と思ってたけど、なるほどそういうことか。

 

 ディックについてはあとは「ヴァリス」しか読んでないので、私にはまだ無限の楽しみが残されている。まあ「ヴァリス」についてはよく覚えてないけど。

「アンドロイド」と本作はかなり印象に残ったので、これで晴れて「読みました」といえる。ようやく。

「アンドロイド」にしても、「パーマー」にしても、ディックは「権力側」と「底辺」を登場させてそれぞれに結構綿密に書き込んでいる。「アンドロイド」ならリック・デッカードが体制側でイジドアが底辺。「パーマー・エルドリッチ」ならレオ・ビュレロやバーニィ・メイヤスンが権力側で火星に住む人々が底辺である。「アンドロイド」では人間と人造人間の決定的な差異を、「パーマー・エルドリッチ」では真実らしい体験とまがい物の体験がいかに見分けにくいものなのかを、それぞれ書き表している。

 はっきりと言葉には出来ないが、一目瞭然のアンドロイドと人間の差異。幻覚と現実の見分けが徐々につかなくなる不可分性。

 ところがこの二つとも、根底に流れている哲学はどうやら同じもののようで、人間の思考や精神などというものがいかに危うくて、ひょっとするとまがい物でも十分通用して、…とはいえ決定的に人間を人間たらしめている。「アンドロイド」のリックは自分を『ひょっとしてアンドロイドなんじゃないか』と疑い続け、「パーマー・エルドリッチ」のバーニィもまた、今この現実が果たして幻覚か本当か、を常に疑っている。

 

年中行事に乾杯したい

 年中行事にはなんとなく参加したい。

 若い人は馬鹿にして手を抜くんじゃないの? というのは、個人的には90年台で終わっている。オワコンである。これからはこういうのには積極的に参加してあわよくば飲みたい、くらいの意気込みで参加すべし。何しろ年中行事は何かにつけて酒を飲む。

 シリーズ小説や漫画で季節感を出すのに、年中行事を使うのは定石である。特にお正月の光景、というのはネタになりやすい。かつて隆盛を極めた学年誌の漫画なんかだと1月発売号では必ずキャラクターが紋付きや振り袖を着て「新年、あけましておめでとうございます」というふうにご挨拶をしていて、後日その絵がいろいろ便利に使われる。年賀状のライセンス商品とか。

 特にお正月は、いろいろな「アイコン」がある上に、他の年中行事に比べてもまだまだ、大切にされているように感じる。どの年中行事も一年にその季節だけ、のはずで、何も正月だけが特別なわけじゃないのだけど。これは伝統のなせる技なのか。区切りの問題なのか。はたまた、お正月合併号とか、年末進行の問題なのか。

 

 ここ最近ではしかし、これに更に「冬コミ」が加わるようになった。ただでさえクソ忙しい時期に仕事とはちょっと趣の違う作業が入る。今年は、この冬コミにも参加してきた。

 唐突だが、もう隠蔽しているのも面倒くさいので今年からは改めて腐女子カミングアウトをしておく。日記の古い記事を確認すればすぐにわかるし、いまさら隠しても言葉の端々に現れるから無意味であろう、おまけに最近は世も末なことに腐女子は「ステータス」らしいじゃないですか。おほほ ちょっとあてくしにはよくわからなくってよ。まあ、隠そうが暴露しようが、どうでもいいやと思っている人にはどうでもいいことだし、嫌悪を感じる人にとっては相変わらず嫌悪感があるんだろうから、だったら黙っているよりそうですよと断っておいたほうがお互いのためだ。

 何の話をしていたんでしたっけ。ああ、冬コミ。去年の話なんですけど、日程がみごとに29〜31日、だったのでした。帰りの電車の隣の席のカップルが「この辺まで来ると、コミケの人いないね」「そうだね」などと話していた。別にその眼差しや口調にも侮蔑も嫌悪感も無く、それほど、「年末の薄い本買い出しの客」は一般化しているということだろう。まさか隣にステルス性コミケの人が座っていようとは…思わなかっただろうな…。

 その後、ニュースで見た「一般参賀」の皇居前で、黒いダウンジャケットの群れが早足でなんかあの、テラスみたいなのの前に急ぐ姿を見て、なんかアレ、コミケに似てるなと思った。崇拝? 特別感? 希少価値? なにかわからないけど、黒いダウンジャケットの人を走らせる共通のものが、皇居一般参賀天皇陛下と、あの時期の東京ビッグサイトが、醸し出しているのかもしれない。

 それは死せる孔明をも走らせるのかもしれない。

 

今週のお題「年末年始の風景」

 

 

何度も同じ映画を見るほどヒマじゃないんじゃない

お題「何回も見た映画」

 

いつの間にかはてながまるでソシャゲみたいになっていた。嫌いじゃないどころか、ノルマを課せられるとついやってしまおうと意気込んでしまう。実際にすべてを達成することはごく稀である。

 その昔、乙女の集った同人サイト界隈では「100のお題」というものがあった。今なら、Twitterの診断メーカーであろうか。不思議な事に、絵のサイトよりも小説のサイトで、この「お題」ブームは盛んだったように思う。私も未だに引きずっている100のお題がある。時たま思い出したようにやってみようとしては中途半端で投げ出しつつ、そろそろ8年ほどが経とうとしているが、まあいいじゃないかそんなことは。

 

 同じ1本の映画を何度も見ている人、というのも近頃ではさして珍しくなくなった気がする。映画1本1800円、というのもあまり問題視されていないどころか、物によっては2000円以上するそうじゃないの。そんなもの、よく何度も何度も見るよね、正気の沙汰じゃない、というよりも、すごいね、映画ファンだねかっこいい、みたいな感じで受け止められている …のだろうか? まあ、オタク界隈では少なくとも「熱心な俺」「キモオタかっこわるい」が裏返って密かな自慢になっているような気はする。

 

 私は、ヒース・レジャーがあまりに役にのめりすぎて命を落としたというクリストファー・ノーラン監督版の「バットマン」3部作の2本め、「ダークナイト」を何回も見た。白状すると、それ以外の映画はそれほど何回も見てない。ノーラン版「バットマン」も、ビギンズもライジングも1回きりだし、同じくノーラン監督の「インセプション」も1回か2回くらいだったかな(2回見たのはよくわからなかったからである)。

他に何度も見たのはだいたい「よくわからなかった」という理由であり、「裏切りのサーカス」とかも好きなんだけどよくわかんないから劇場で3回見てDVD買いました。DVDを買うのは「なんか好きだしわかりたいけど劇場だとメモとか取れないしストップモーションできないので仕方なくメモ代わりに」というケースも多い。

 が。が。「ダークナイト」な何故か非常に「刺さった」。好きな俳優が出てたわけでもない。ただひとつ、少し期待があったとするなら、子供の頃に珍しく名古屋の劇場で見たティム・バートンの「バットマン」が意識の奥底にこびりついていた。死んでなお馬鹿笑いを残すジャック・ニコルソンのジョーカーがとても恐ろしく、今見るとなんてこと無いんだけど、とにかくものすごく怖かった思い出がある程度で、まあ、「バットマン」ならアメコミでもみてもいいかなくらいのものである。今でもたまに考えるのだが、未だにどこが一体「刺さった」のか、よくわからないけど良かった。できれば実際に病院が爆破されたシカゴに行きたかった。シカゴはかなわなかったけど、別の理由で「自らの趣味のためには散財を辞さない」友達とハリウッドまで行った。コスプレの人にレイチェル・ジョーカーごっこをしてもらった(1ドル払いましたけど、あれで1ドルというのは高いのか安いのかわからない。結構遊んで貰える)。ワーナー・ブラザーズの博物館でジョーカーのコスチュームをすごい近くで見たり(匂いを嗅いだり)、「WRITER」とか書かれたマグカップを買ったりした。なかなか痛い。

 あの作品は徹頭徹尾、割りと気が抜けず、間延びもせず、見終わった後すごい長くてエキサイティングな夢を見て目が覚めたような感じで、寝汗をいっぱいかいていた。寝てないのに。結構長い作品だから、ぜったいどこかで中ダレするだろと思ったけど、しなかった。だいたい長い作品って途中で時計を見ちゃうくらいせっかちくんなんだけど私。すごいな、天才や、ノーランさんすげえ、などとひとしきりしゃっくりみたいにびっくりしながら、帰路についた。水曜日の、レイトショーの、新宿ピカデリーだった。すでに映画は公開されてから数週間が経ち、興行もさほど良くもなく、ロードショーは粛々と、ひっそりと、終わろうとしていた。その矢先。