日月星辰ブログ

Vive hodie.

細い道

 昔住んでいた「団地」は似たような作りの家が200世帯ほど立ち並んだ、ニュータウン的な人口集落だった。団地というと都市部ではマンションのようにビルのイメージがある。実際、もうすこし都会にはマッチ箱が立ち並んでいるような集合住宅式の団地もあった。さまざまな土地の人に話を聞いてみると、戸建てが立ち並ぶ場合も、集合住宅のビルディングが立ち並ぶ場合も等しく「団地」と言い習わす習慣はわりとどこにもあるらしく、詰まるところ土地の値段や面積に比例して、集合住宅式か戸建て式か、に別れているだけなのだろう、と思われる。

 建て売りらしい、綺麗に整理された戸建ての家家、その200世帯の水を管理する給水等、団地の出口付近に設置されたため池、山を切り崩したためにできた、団地までの長い坂道、入り口に立つ駄菓子屋と、建て売りの家家とさして変わらぬ作りの「集会所」(図書室があり、和室があり、50人程度が入れる会議室がついていた)、その窓から見える公園などが、私の原風景である。

 どうも、三歳ぐらいの頃までは別の集合住宅式の「団地」に住んでおり、その頃の記憶もうっすらとながらある。父に肩車をしてもらうと頭スレスレまで近づいた天井や、各階に設置されたコンクリートの階段。母と一緒に出た団地の中庭にいた茶色い毛虫のこと、そこから転げ落ちて、唇の傍を切ったこと(しばらくその傷跡は残っていた)。お友達とおままごとをしたこと、美味しそうだなと思って洗濯石鹸を食べてしまったこと…

 しかし所詮三歳までの記憶だと、具体的な知識の部分は甚だ曖昧で、その団地がどこにあったのかなどは思い出せないというか、知らないのである。三歳ではそこから自ら出かけて、住所を頼りに帰ってくるということもしない。当たり前だ。子供の世界はおうちの中がほぼ全てである。その頃の私はお留守番をテーマにした絵本がとても怖く感じた。逆説的ではあるがその頃の自分にとって家が全てであるのだから、その外から覗き込んでくる他人は泥棒とか以前に、さながら宇宙の果てからこちらを見てくる、異次元の生き物に等しかった。

 ——そうした幼児期から比べると、引っ越した先では18年住んだだけあって、いまだに住所も覚えているし、別に200世帯が全てのその小さな村落のような場所が「私のすべて」ではなかった。小中学校では学区の中で一番遠いチームに属していた。毎日、徒歩か自転車で学校まで通うのである。

ホーム団地にはその性質上、車が通行できる道以外に、人が歩いて通れる程度の細道がいくつかあった。入り口と出口に車止めがついており、自転車で侵入するには多少の工夫がいった。本当は自転車も通ってはいけない道だったのだろうと思うが、子供たちはまあ当然お構いなしである。家と家の間全てについているわけではなくて、20戸ほどがまとまっている区画ごとの仕切りにあったのだと思う。大人が何の気なしに設計したその細道は、子供にとっては格好の迷宮だった。鬼ごっこをするのにもその細道を逃げるとなんだか、上級者めいたきもちになった。

 

そういう細い道は東京にもいくつもある。ビルとビルの隙間の裏路地などは、そうでなくてもいろいろなドラマを感じてしまう場所である。中野の飲み屋街や秋葉原の部品市場、新宿のしょんべん横丁の「ワクワク感」は多分にあの裏路地感、細道効果だと思っている。団地の細道なんて知らずとも、路地裏にロマンを感じる人はおおいので、人間は本能的に、細い抜け道が好きなのかもしれない。かつてネズミだった頃を思い出すのかも。

 

 最近近所にもそうした道をみつけて、密かに気に入って、機会があれば通るようにしている。飲み屋の路地裏でもなければ、ビルとビルの隙間というのでもない、どちらかと言えば私がかつて住んでいた団地の細道に似ている。車止めが付いていて、舗装されていて、道の両端に立っている建物はお互い、お尻を向けあって知らんぷりをしているような感じである。企業の裏口や、自転車置き場などがその道からだと丸見えになる。

 大きな幹線道路を通るよりも、こっちの方が閑静でもあり、というかたかだか細道一本でこんなに大通りの「気」が弱まるのかと、通るたびに驚いている。●●通り、と立派な通りの名前がついた、車もびゅんびゅん走る通りを、ちょっと曲がっただけなのに、ふと空気が変わるのだ。エアポケットみたいに。

 そうして、通るたびに私は、原風景の団地の細道を思い出す。ちょっと上級者になったみたいな気持ちで、悠々と細道を通りすぎる。別に誰とも鬼ごっこもしていないし、そこを通ることが格別の近道というわけでもないけれど。