精神の修養、という話をすると、今日日何言ってんの、と言われるのが関の山である。
精神論は不毛であるという。またはひどい時はパワハラだと言われる。竹刀を持ってのべつ幕なしに生徒のお尻を引っ叩こうとする体育教師のようであると言われる。うつ病を誘発しかねない、諸悪の根源だ、とも言われるかもしれない。そういう側面もまああるだろう。しかし、自分一人で言っているだけであれば、別にいいじゃないか、と思う。体育教師だって自分で自分の尻を引っ叩いているのであれば、変態とは言われるかもしれないが、パワハラ教師とは言われない気がする。
己が己に打ち勝つ、というのが「克己心」というものらしい。この、些か古の劇画調の言葉を私が知ったのは、高校二年生の時、くしくも体育教師からであった。冬場のジョギングの授業の際だったと思う。走り続けることの「いやさ」を克服するのは、己に打ち勝つ心が必要である、と言ったような話だったと思う。
今の私と同じぐらいか、もう少し若かったであろう彼の言葉が、ずっと心に残っていた。いろいろな本を読んでも、なかなかこの言葉には出会えなかった。文字で書けばすぐに意味がわかる類で、別に「意味わからん」と思ったわけではないのだが、ちょっとばかし暑苦しい、うざったい言葉として、長年脳裏に住み着いていた。
そんな言葉を思い出したのも、そろそろ梅雨も明けたし、ジョギングを再開しようと思ったからである。
正直言って、私がジョギングをする理由など、ほぼないに等しい。自慢じゃないが体重は適正である。そりゃあまあ、体脂肪率18%のモデルとかと比べたら太ってはいるが、自分では別に不満を持っていない。むしろ筋トレして、少し力とプロポーションを整えたいなと思っているぐらいか。健康もまあ今のところは問題がない。現時点で、可及的速やかに「走らなければならない」動機に乏しいのである。
そもそも、この年になってくるとちょっとやそっと走ったぐらいでは、体重は落ちない。それは筋トレもしかりである。二週間ぐらいで結果が出るほど、若くもなければペソペソでもない。結果が出ないことを延々と続けるには、他の動機づけが必要なのである。そこで持ち出したのが「克己心の修養」という概念である。
身体は変わるまでに時間がかかる。大概途中で飽きてしまう。精神に関しても、「全く変化する」ということが起こるまではそれなりに時間が必要なのだろうが、瞬間瞬間の判断が精神の要素であるのであれば、いっぽ足を踏み出すごとに「克己心」のかけらが湧いて出るというイメージでもあながち間違いではないだろう、と考える。考えることにする。
毎日ブログを書く。お昼寝をしないで頑張る。お酒は月に一回に止める、開いた扉は閉める、出したものは片付ける… いろいろな「修養」があるだろうが、まずは「豚ではなくシャケ」を選び続ける… というのを今月のテーマにすることにした。
「豚ではなくシャケ」を選んだのは、「ジョジョの奇妙な冒険 第6部」に出てきた、宇宙人に心を乗っ取られた内気な女囚である。ほら、カリメロみたいな髪の毛の子…。このシーンもみょうに記憶に残っている。
今日の「豚よりシャケ」は、朝のジョギングで一応は達成したことにする。