日月星辰ブログ

Vive hodie.

読書日記 おにんぎょうさまがた

 最近は、本を読む、となるとなんだか一大事業のようになってしまう。

 もともと黙読ができない質である。と言っても、中世の修道僧みたいに、声に出して読んでいるというわけではない。頭の中で音を想像しながら読んでいる。こういう人は読むのもあまり早くなく、得意でもないらしい、と何かで読んだ。これを読めば速読が身に付けられる、とかいうタイトルの本だったような気がする。

 そんなものを手に取るぐらいだから、この読解の遅さを密かにコンプレックスに思っていた。さらに元々ののんびり屋の性格も手伝って、そもそも読み始めるのに時間がかかる。買ってすぐその日に、ということにはならないことの方が多い。積読がたまる。流石に買うのを控えているが、日々何やら面白そうな本は目白押しに出版されている。これだけはどうしても、とかなんとか理屈をつけてまた買ってしまう。気ばかりが焦る。ところが焦りやプレッシャーを感じると人間は逆に行為の方を億劫がるようにできているらしい。少なくとも私はそういう人間だ。巷には「すぐやる」系の自己啓発書が多い。ということは大方の人々も同じなのだろう。ますますこしが重くなる。出費と積読ばかりが嵩張るデフレスパイラルの完成。

 三年ほど前に購入した「2666」をつい最近読み終わったことは前に書いた。あの時は流石に7000円もの出費と、ずしりと重い本そのものの存在感に、買ったその日に少しは読んだはずである。が、まあ途中で止まってしまい、再びページを開くにはコロナ禍とそれに伴う自粛生活がなければならなかった。多分、普通に仕事をしていると普段は結構忙しいのがまずいんだと思う。本を売りたければ、暇な人間を増やせ。これが鉄則だ。

 戯言はともかく、まあそうして仕事の合間に何かを読もう、という殊勝な心がけをもった人ならば、次の二択に迫られるものだと思う。

 ・せっかく余暇時間を使うのだから、有意義なものを読む。

 ・せっかく余暇時間を使うのだから、軽く読める楽しいものを読む。

 私は後者に関しては漫画で十分だったので、前者を選びがちだった。漫画にあまり興味のない向きは、後者でサクサクと湊かなえ先生や宮部みゆき先生などのズンズンのめり込める本を読まれているのだろう。私にとってはそれは今のところ漫画「ゴールデンカムイ」でいっぱいいっぱいである。毎週楽しみにしている。そこである程度のアドレナリンは出ている。

 となると、「有意義なもの」を読もうと厳選した挙句、骨太の作品ばかりを選んでしまうことになった。サクサク読めてためになる、などというのは欺瞞であろうと頭から決めつけている。だいたいサクサク読んだものはサクサク忘れてしまう頭の構造なのだ。

 そうなると、一冊に一週間ぐらいかかってしまうし、ますます書の選択に慎重になる。これは実はあちらが立てばこちらが立たずの話で、とっとと作戦を変更して学びの質だのということは量が凌駕してくれる、と、サクサク読める本をサクサク読んで残ったところを得ればいいのだが、まあ面白そうで難しそうな本があると、まずそれが気になってしまう。

 先日まで読んでいた「進化生物学」は大変面白く、読後にはちょっと世界の見方が変わった。一様に嫌いだった虫も、あいつらは発生の過程からして別物なのだからしょうがないね、と思えるようになったし、環境問題への見方も少し変わった。得るものは多いにあったわけだが、ちょっと手間がかかりすぎる。

 特に小説は、もう少しこう楽しみたい。楽しく何冊もサクサク読みたいと思いながらも、もしあまり好きな作品じゃなかったらどうしようみたいな気持ちもある。

 そんなところ、ちょっと前に仕事で関わりがあり、ライト文芸というジャンルを知った。

 ライトノベルと、文芸書の中間ぐらいにある本で、読書初心者が楽しく読める本が揃っている、という。ちょうど仕事の際に、熱い編集氏の話なども聞いていたので、ちょっと興味がわき、その足で面白そうなものを買ってみた。

 まあ、それもしばらく積読になっていたのだが、ちょうど「進化生物学」が終わったので、次に読む本は、と探しているときに未読本として見つけたので、読むことにした。

 前置きが長いが、本に至る経緯というのは割とすぐ忘れちゃうので、書いておかなければならない。それに、こちらを読み人だっていきなり本だけが登場してもふーんてなものだろう。

 というわけで、サクサク読めて、物語も楽しめるであろう、というわけで集英社オレンジ文庫より長谷川夕先生の「おにんぎょうさまがた」を読んだ。

 

 ライト文芸にしては書影が渋い。お人形たちの絵だと思うが文芸書と言っても通りそうな感じである。連作の5編の短編が入っており、いずれも奇妙な人形が主題となっている。主人公がいろいろな意味での「現代の暗部」で、ゴシック風の人形譚を期待しているとちょっと違う感じがするかもしれない。

 母子家庭の子供。シングルマザー。工場労働者。就職難民。あるいは、庶子

 と、ビスクドールである。

 その対照の妙に味わいがある。それにビスクドールも、現代風のいろいろな機能が搭載されている——ことになっている。物語はホラーテイストのもの、ミステリ調、メロドラマ、ファンタジーと様々な様相を見せるが、根幹で束ねられているものが徹底的な「ファンタジー」なので、逆に大人は安心してフィクションとして楽しめると思う。

 所々「えーそうなるかなー」というところはあった。「エセルが映したから」に出てくる男性はちょっと理解しがたい優柔不断だし(離婚した噂を聞いた時点で会いに行けや)、「サマーは直らないで」もいくらなんでも気付かないかしらね、というトリックである。作中人物自身を取り巻く、(人形とは無関係の)影や闇の描き方が、そういう「えー普通そうかー?」というところを補っている。

 いずれもラストに多少の救いがあり、あるいは一見なくても、倫理的なモヤモヤは少なく設計されているのではないか、と思うようなところがあった。

「さよならクローディア」で一連の人形たちがなぜ、そのようであるのかを示唆するような文章が出てくる。不幸→悪意→悪行 の連鎖を、人形たちが肩代わりする。陰陽道の厄身代わり人形のようにではなく、むしろ増幅器として。しかし、不幸な人たちの心情が丁寧に描かれているからこそ、そこにはそれほど恐怖は沸かなかった。導入で隠してあるいくつかのトリックが明らかになるところなどは鮮やかで気持ちがいい。筋立てが明晰で美しい。それがあるから「気持ち悪さ」はさほど感じずに済む。サスペンスはあるが、ホラーかと言うとそこ知れぬ恐怖に打ち震えるような感じはない。ミステリのように明晰だが、一部にファンタジーがある。作中の秩序は整然としている。読後感は爽やかだった。「ミーナ」はそれなりにゾクゾクして読んだが、背景が分かってきてしまうとだんだん怖くなくなってしまう。クローディアによる読者の救いはあるべきだったのだろうか。

ホラーなのだったら「エセル」のあほな男もまあ許してあげたい。なぜならホラーには愚かな人間どもがつきものだからだ。

(以上ネタバレを回避したつもりだが、もしネタばれてたらごめんなさい)

 

今日のご飯

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いろいろなおかずを作ってみた。