日月星辰ブログ

Vive hodie.

袋小路の男 絲山秋子

袋小路の男

袋小路の男

芥川賞の「沖で待つ」やその前の候補作(だったかな)の「勤労感謝の日」など、どれもあらすじを聞きかじるにつけ、なんだか良い感じ、なんか分からないがいっこまえとかそのまたいっこまえの芥川賞作品とは明らかに違ういいかんじを予感し、真面目に正座をするここちで、この本を買ってきてみた。やっぱりデビュー作から順を追って読みたがるのが、まあ、本読みの傾向というわけ…だが、残念ながら、近所の本屋にあった一番古い作品がこれだった。デビュー作は違うやつでしたすみません。

表題作「袋小路の男」は、一人称に絞られた小さなレンズから世界を見ている心地で、ひたすらに美しい恋愛小説、という感じ。「あなた」として生命を超えたような透明で観念的な存在感で描かれる「袋小路の男」。ちょっと大阪と東京とに離ればなれになるだけで、「あなたも同じお月様を見てると思った」とかなんとか、ちと感傷的にすぎやしませんか、そのまま死んじゃうのかと思った、ってかんじなのだけれど、読んでいる間はどっぷり、浸らせてくれるのでさほど違和感を感じずに生きたまま何度死んでも生き返る袋小路の男は、マザーグースかなにかにでも出てきそうな透明感で、存在し続ける。そう言う薄氷を踏むがごとき緊張感がお伽噺的な「対象との距離感」を適度に保っていて、そこが心地よい。

その裏焼きとも言える次の作品がまたおもしろい。「小田切孝の言い分」ではうってかわって、しょうもない若者二人がずるずるべったり付き合ったあげくの陳腐な袋小路の話になる。題材はおそらく同じ。どちらも。何を描くか、どこまで描くかを変えただけ。それでおもしろい作品を2こつくっちゃう作者の筆力が凄いと思った。

大筋の取捨選択もそうなのだけど、2作品とも言葉の選び方が絶妙だった。それを書いて、そこは捨てるのか、そんな事はかいちゃって、こんなことは伏せとくのか、といちいち驚いた。たとえば、大谷さんがあこがれる小田切の小説の内容とか、本当にだめっぽいんだけれども、いかにめっぽいかを「千葉に断崖絶壁を見に行く」とかそのあたりで表現しちゃうのねー。なるほどねー。と思った。小説の中には自ずと、作品世界でのみ通じるお約束、と言うものがあるのだが、「それ」だと思って読んでいたらちがいましたぶぶー、みたいな。どうみてもこれださいだろ、と読者がちらりと思っても、地の文で「すばらしい」って書いてあったら普通信じますわな。そういう読者の側の判断停止を上手く使って、そこをトリックにしているというか。いかんますます混迷を極めた。

田切孝は、妖精の王オーベロンか、ただの非モテニートか。そのどちらでもあり、また同時にそのどちらでもない。これっぱかりは小説でしか描き出せないトリックだと思うよ。