日月星辰ブログ

Vive hodie.

平日の時間

 就業中はよほどのことがない限りはつつがなく物事が進む。そういう時は若干退屈で時計の針が進むのが遅い。能力以上のことを求められて日々ぐいぐいと絞られるという境遇ではないことには感謝しかない。ただ、拘束時間はもう少し短くてもいい(と言っても、普通の会社より十五分ほど短い)。

 それはそれとして、さて家に帰ってくると、まあ五時間ほどの自由時間があるはずなのに、気づいたら全然、時間がないのである。どこかに行ってしまっている。別にスマホゲームばっかりやってるわけでもないし、Twitterばかり見ているわけでも…ないはずなのに。実際、最近は呟く暇さえない。一体何してるんだろう…

 

 ブログを書く時間ぐらい確保したいが、今日はほんとなんでか知らないけど時間が解けていった。おかしい。モモに聞いてみるしか。

 そんな内容のない日記でも、日々自分のための備忘録なので、書いておく。

 今日はまあ、そういう日だった。

 

 今日のご飯。というよりは食後のデザート。

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脱獄王クッキーにアイスつけるとうまい、と聞いたので、やった。

美味しかった。

 

 

「やらないことを作る」とかかっこいい

 ミニマリストにはまだまだ抵抗を覚える向きも多いらしい。私も「半信半疑組」の一人だ。

 「ミニマリスト思想」自体はそろそろ新しいものでもなくなってきている。カレン・キングストンの「ガラクタ捨てれば自分が見える」が文庫版で出版されたのが2002年。「断捨離」はそもそも1976年に日本人のヨガの先生が提唱したものだ、とWikipediaには書いてあるが、それはひとまず2009年にやましたひでこがブームを起こす前から、密かにこの本があった。私も半ゴミ屋敷(引越しの手伝いにきてくれた叔母に「物の中を泳いでいるようね」と言われるぐらい)になりつつあった自宅をどうにかしようと思っていた際に、お友達に勧められてまずこの本に出会ったのだったか。

 キングストンはイギリス人なので、当然そのメソッドについても英語で名前をつけている。スペース・クリアリング。イギリス人らしいスピリチュアリズムかと思いきや思想の根幹は風水らしい。フェン・シュイ。

 風水思想というと、部屋の窓の位置とか、気の通り方とか、ひいては都市計画などを支えてきた道教をルーツにもつ教え…だと思う。そこを「空間浄化法」とグローバルにしたところが面白い。

 断捨離にしろ、こんまりメソッドにしろ、日本発のイメージが強いが、先行してこんな本もあったのである。どちらにしろ、東洋思想を感じさせるところ、面白い。

 ブッダは物への執着を捨てて、糞掃衣一つでいい、といい、寒山拾得風狂貧乏の覚者である。昔から清貧はみんなの憧れだった。どうせ人間死ぬのだから、あまりガラクタをどっさり持ってても仕方ない… と言うようなアレには私もずっと惹かれてきた。が、まあまだそこまで踏ん切りはついてないわけ。実践していることと言ったらせいぜいむだな買い物を控える程度だが、それだって推しの缶バッジに血眼になっている。

 本当に推しが輝いて見えるのであれば、こんまり先生やキングストンは「捨てなくてもいい」とおっしゃる。その代わり恭しく、下へもおかぬ扱いをして差し上げろ。その通りである。段ボールに放り込んで保留しておくなんてもったいない。推しバッジのいくつかはそうして飾ってはあるものの、まだまだ段ボールのおくに仕舞い込まれているものもまあ、ある。買ってきたものは有意義に使え。さもなければすてろ。あるいは、そもそも買ってくるな。と言うことだ。

 そうした断捨離に成功した人——すなわちミニマリストは口を揃えて、「ものを減らすと時間ができるよ」と言っているらしい。YouTubeとかブログとかではすごいよくみるが、実際に知り合いでみたことがないので、幸せになるだのなんだのと言うのはまだ実感としてよくわからないが、少なくとも「時間ができるよ」は確かに物理的に本当だろうな、とわかるところである。物が少なければ掃除が早い、は別にビジネスホテルの個室の例を取らずとも理解できる。

 が、まあ、そこからさらに先を言って「やらないことを作る」までくると、途端に私には禅問答の領域になってくる。東洋思想だから禅でいい…? そんなばかな。

 片付けたりするときに「導線を考えました」とか、「ワンアクションで取り出せるように」とか言うのは確かに「やることの効率化=やらないことを一つ増やす」だと思うが…「やらないことを作る」と言うほど、忙しいか? そんなの、かつて秒単位でスケジュール埋めてたヤンエグだけのあれなんじゃないのか…?

 実際、ちょっと前にバスった「やらないことを作る」の提唱者は確かプリシラ・チャンだった。彼女ならくそ忙しいから、そりゃ一つや二つ「やらないでおこーっぴ!」って決めたくなることもあるだろう。しかし、食器洗いから果ては風呂まで、面倒臭くてたまらない怠け者はここからさらに「やらないことを作っ」てどうするのだ…? 

 かくしてまた一つ、断捨離への躊躇が深まり、綺麗な部屋がほんのちょっぴり、遠のく。いや確かに、毎日なんやかんや言って十二時すぎても起きているのだから、何か余計なことをやっているには、違いないのだけれども…

 

今日のご飯。

私の趣味は大別して「楽器」「文章」「写真」の三つである。それにちょこっとだけ「料理」と書いてもいいかなと思っているが、料理は生きるために食べているところが強い。「日々のご飯なんて簡単でいいんです」と言う方があっている。

 栄養さえ取れればそれでよし。

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二日連続で塩シャケであるが、今回はポン酢と玉ねぎと一緒にレンジでちんすると言う素敵なレシピを実践してみた。蒸し焼き風味で美味しい上に五分でできる。レシピ考えた人天才か。

https://oceans-nadia.com/user/45109/recipe/380542

 

レシピを備忘録と敬意を表するためにここに貼っておく。所要時間10ふんってあるけど、レンチンは五分で十分だった。一人分だったからだと思う。あとこちらは長ネギを使っているが、私は玉ねぎで代用した。

 

読書日記 おにんぎょうさまがた

 最近は、本を読む、となるとなんだか一大事業のようになってしまう。

 もともと黙読ができない質である。と言っても、中世の修道僧みたいに、声に出して読んでいるというわけではない。頭の中で音を想像しながら読んでいる。こういう人は読むのもあまり早くなく、得意でもないらしい、と何かで読んだ。これを読めば速読が身に付けられる、とかいうタイトルの本だったような気がする。

 そんなものを手に取るぐらいだから、この読解の遅さを密かにコンプレックスに思っていた。さらに元々ののんびり屋の性格も手伝って、そもそも読み始めるのに時間がかかる。買ってすぐその日に、ということにはならないことの方が多い。積読がたまる。流石に買うのを控えているが、日々何やら面白そうな本は目白押しに出版されている。これだけはどうしても、とかなんとか理屈をつけてまた買ってしまう。気ばかりが焦る。ところが焦りやプレッシャーを感じると人間は逆に行為の方を億劫がるようにできているらしい。少なくとも私はそういう人間だ。巷には「すぐやる」系の自己啓発書が多い。ということは大方の人々も同じなのだろう。ますますこしが重くなる。出費と積読ばかりが嵩張るデフレスパイラルの完成。

 三年ほど前に購入した「2666」をつい最近読み終わったことは前に書いた。あの時は流石に7000円もの出費と、ずしりと重い本そのものの存在感に、買ったその日に少しは読んだはずである。が、まあ途中で止まってしまい、再びページを開くにはコロナ禍とそれに伴う自粛生活がなければならなかった。多分、普通に仕事をしていると普段は結構忙しいのがまずいんだと思う。本を売りたければ、暇な人間を増やせ。これが鉄則だ。

 戯言はともかく、まあそうして仕事の合間に何かを読もう、という殊勝な心がけをもった人ならば、次の二択に迫られるものだと思う。

 ・せっかく余暇時間を使うのだから、有意義なものを読む。

 ・せっかく余暇時間を使うのだから、軽く読める楽しいものを読む。

 私は後者に関しては漫画で十分だったので、前者を選びがちだった。漫画にあまり興味のない向きは、後者でサクサクと湊かなえ先生や宮部みゆき先生などのズンズンのめり込める本を読まれているのだろう。私にとってはそれは今のところ漫画「ゴールデンカムイ」でいっぱいいっぱいである。毎週楽しみにしている。そこである程度のアドレナリンは出ている。

 となると、「有意義なもの」を読もうと厳選した挙句、骨太の作品ばかりを選んでしまうことになった。サクサク読めてためになる、などというのは欺瞞であろうと頭から決めつけている。だいたいサクサク読んだものはサクサク忘れてしまう頭の構造なのだ。

 そうなると、一冊に一週間ぐらいかかってしまうし、ますます書の選択に慎重になる。これは実はあちらが立てばこちらが立たずの話で、とっとと作戦を変更して学びの質だのということは量が凌駕してくれる、と、サクサク読める本をサクサク読んで残ったところを得ればいいのだが、まあ面白そうで難しそうな本があると、まずそれが気になってしまう。

 先日まで読んでいた「進化生物学」は大変面白く、読後にはちょっと世界の見方が変わった。一様に嫌いだった虫も、あいつらは発生の過程からして別物なのだからしょうがないね、と思えるようになったし、環境問題への見方も少し変わった。得るものは多いにあったわけだが、ちょっと手間がかかりすぎる。

 特に小説は、もう少しこう楽しみたい。楽しく何冊もサクサク読みたいと思いながらも、もしあまり好きな作品じゃなかったらどうしようみたいな気持ちもある。

 そんなところ、ちょっと前に仕事で関わりがあり、ライト文芸というジャンルを知った。

 ライトノベルと、文芸書の中間ぐらいにある本で、読書初心者が楽しく読める本が揃っている、という。ちょうど仕事の際に、熱い編集氏の話なども聞いていたので、ちょっと興味がわき、その足で面白そうなものを買ってみた。

 まあ、それもしばらく積読になっていたのだが、ちょうど「進化生物学」が終わったので、次に読む本は、と探しているときに未読本として見つけたので、読むことにした。

 前置きが長いが、本に至る経緯というのは割とすぐ忘れちゃうので、書いておかなければならない。それに、こちらを読み人だっていきなり本だけが登場してもふーんてなものだろう。

 というわけで、サクサク読めて、物語も楽しめるであろう、というわけで集英社オレンジ文庫より長谷川夕先生の「おにんぎょうさまがた」を読んだ。

 

 ライト文芸にしては書影が渋い。お人形たちの絵だと思うが文芸書と言っても通りそうな感じである。連作の5編の短編が入っており、いずれも奇妙な人形が主題となっている。主人公がいろいろな意味での「現代の暗部」で、ゴシック風の人形譚を期待しているとちょっと違う感じがするかもしれない。

 母子家庭の子供。シングルマザー。工場労働者。就職難民。あるいは、庶子

 と、ビスクドールである。

 その対照の妙に味わいがある。それにビスクドールも、現代風のいろいろな機能が搭載されている——ことになっている。物語はホラーテイストのもの、ミステリ調、メロドラマ、ファンタジーと様々な様相を見せるが、根幹で束ねられているものが徹底的な「ファンタジー」なので、逆に大人は安心してフィクションとして楽しめると思う。

 所々「えーそうなるかなー」というところはあった。「エセルが映したから」に出てくる男性はちょっと理解しがたい優柔不断だし(離婚した噂を聞いた時点で会いに行けや)、「サマーは直らないで」もいくらなんでも気付かないかしらね、というトリックである。作中人物自身を取り巻く、(人形とは無関係の)影や闇の描き方が、そういう「えー普通そうかー?」というところを補っている。

 いずれもラストに多少の救いがあり、あるいは一見なくても、倫理的なモヤモヤは少なく設計されているのではないか、と思うようなところがあった。

「さよならクローディア」で一連の人形たちがなぜ、そのようであるのかを示唆するような文章が出てくる。不幸→悪意→悪行 の連鎖を、人形たちが肩代わりする。陰陽道の厄身代わり人形のようにではなく、むしろ増幅器として。しかし、不幸な人たちの心情が丁寧に描かれているからこそ、そこにはそれほど恐怖は沸かなかった。導入で隠してあるいくつかのトリックが明らかになるところなどは鮮やかで気持ちがいい。筋立てが明晰で美しい。それがあるから「気持ち悪さ」はさほど感じずに済む。サスペンスはあるが、ホラーかと言うとそこ知れぬ恐怖に打ち震えるような感じはない。ミステリのように明晰だが、一部にファンタジーがある。作中の秩序は整然としている。読後感は爽やかだった。「ミーナ」はそれなりにゾクゾクして読んだが、背景が分かってきてしまうとだんだん怖くなくなってしまう。クローディアによる読者の救いはあるべきだったのだろうか。

ホラーなのだったら「エセル」のあほな男もまあ許してあげたい。なぜならホラーには愚かな人間どもがつきものだからだ。

(以上ネタバレを回避したつもりだが、もしネタばれてたらごめんなさい)

 

今日のご飯

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いろいろなおかずを作ってみた。

あまり期待した梅雨の晴れ間とはならなかった

かなりヘンテコな寝相でもびくともしなかった腰の関節が、いよいよガタピシなり出した。

 部屋の電気が暗いことに気付き、取り換えるべく近くの薬局まで歩いて行くところで、妙な違和感がやってくる。

 脚立の上で小一時間、ああでもないこうでもないと天井ランプのカバーを付けようとしていた。その作業自体は汗だくになったのと、苛立たしさ以外には特段何も悪いことはなかったはずなのに、なんとか無事にカバーをつけて切れた電灯を買いに出かけた途端に、じわじわと腰が痛み出したのである。

 面白いことに、股関節を締め気味にするとなんとなく痛みが減るような気がする。自然大臀筋を緊張させて歩くことになるが、どう考えてもあの作業が腰にきた。悔しい。

 薬局やスーパーで20ワットの蛍光灯を探し回った。どこのお店で聞いても、みな親切に教えてくれる。スーパー「ライフ」の店員さんなどはわざわざ他の蛍光灯(丸いやつや電球なんか)が置いてある売り場まで案内してくれ、「ここにあればあるんですけど」と申し訳なさそうに言っていた。

 優しい、といえば木曜日に入ったカフェでも、やけに店員さんがうれしそうにしていた。久しぶりに人をもてなせる喜びのようなものをひしひしと感じた。コロナ禍が終わってもこういうの忘れないようにしたいな…

 というわけで腰にふあんを抱えているので、今日は早く寝ようと思う。

 

 ご飯。

 

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ご飯が四角いのは解凍ものだからである。簡単冷汁とナスの炒め物。

冷汁は美味しかったのでまた作りたい。

ジェネレーションギャップと都知事選 

ほとんど社員が会社にいる状態でZOOM会議が行われた。

正直なところ、木・金と休んだってかまわなかったのだが、若干の「今週のやり残し」と、この会議が楽しみでしょうがなくて、出てしまった。

会社にみんないるけど、狭い会議室で集まるのもなんなので、ということらしい。ワクワクしてしまう。

 各自の席から、あるいは会議室から、みんなバーチャル会議室にアクセスしてくる。そこここのパソコンからおなじ音がやまびこのように聞こえ、マイクはハウリング、デジタルリテラシーの混乱、そして衝撃の結末へ、という大変エキサイティングな会議であった。私のマイクがしつこくハウリングしてて、怒られたが、同じフロアでみんながズームしてるんだからしょうがないじゃんね。

 もう在宅にさせてくれ、と思ったとか思わなかったとか。

 

 今週は休みを挟んだのでだいぶん楽である。連絡関係も一個妙な面倒なものがある以外は至極平和で、し残しの入稿作業などをサクサクとこなしていたら、大学時代の友達で同業の人からお電話がかかってきた。詳細をかくと問題があるので、ざっくりと丸めると、「うちの若い者がすみません」というような話である。まあ、そういうことがあったわけ。事情を上に話したら不躾だということになり、案件は放置に至った。

 まあもう少し事情は複雑で、彼の部下は言ってみれば巻き込まれたに過ぎない。

 そういうような説明をして、ご面倒に巻き込んでしまって、と言っておいた。

 最近こういうことが割と多い。上層部の50代ぐらいの人々と、20代から30代の人々との間のコミュニケーションにおける倫理観がずれている。両方の言い分を丁寧に聞いてみると、ここがずれている、というがなんとなくわかる。50代は対面・礼儀・ウェットを重んじる。相当進歩的な向きであっても根本がなんとなく変わらない。おそらく、ほとんどの日本の企業のトップもそうなので、まだ「老害」と片付けてせせら笑うのは早い。まて。こういう人たちの心を掴んで転がさないでどうする若者たち。「従え」と言っているわけではない、理解し、うまく使え、というだけだ。ここでいたずらに老害とか言って罵ってしまっては何も生まれない。そんな傍若無人なことを言えるのはスタンドアロンの権力者だけだし、ある程度人から恨まれることを覚悟しなければならないし、口先ばかりで本当はそういう人だって人をうまく転がしてうまいことやっている。とかく上の悪口をいうと若者からはモテるが、悪口通りに振る舞うかというとそういう人間は狡猾なのでそうは振る舞わない。

 一方で20代30代は迅速・明晰・コストカットを尊ぶ気がする。特にコミュニケーションはメールでさくっと、という向きが多い。まあ、そういう人がメールだけで全てをちゃんと伝えられている人ばかりかどうかは知らない。私もどちらかというと早く迅速・明晰・コストカットの世界に行きたいなと思っているが、やっぱりメールや文章だけでちゃんと全てを伝えられるかどうかはあまり自信がないので、込み入った話になったら電話してしまう。

 そういえばホリエモンは電話死ねとか言ってたな、と思いながら、都知事選のポスターをみる。やべーやつと組んでいるなホリエモン。流石に頭大丈夫かと思ってしまうが、これも彼流の迅速明晰なのかもしれん、が到底同調はできないし、やっぱり頭おかしい、と思ってしまう。彼ほどの頭の回転の境地は到底窺い知ることもできないし、一度拘置所に入るまでの冒険を行った人間には、もう何も怖いものはないのかもしれない。特に世間体とかはどうでもいいのだろう。

 世を拗ねている、というのとも、清濁合わせのむ、というのとも少し違うような気もする。やけくそ、でもない。世間=正義ではない、というのが一度骨身までわかった人、なのかもしれない。あくまで想像だが。

 

今日のご飯。

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朝ごはんが一番綺麗に撮れている。

夜は晩酌にしてしまった。宮崎名物・鶏の炭火焼がコンビニで売っていたので買って食べた。 

あれ美味しいけど、見かけがちょっぴりバエない。

ゴールデンカムイポップアップショップ 桜まつり

 アニメの3期制作決定、22巻発売とわが推しまんが、ゴールデンカムイの躍進が止まらない。今週は掲載誌「ヤングジャンプ」の巻頭カラーも飾っている。

 そんな中、このコロナ禍で延期を余儀なくされていた4月開催予定だった「桜まつり」が渋谷マルイで開催されている。前回「七夕イベント」の際には、せっかくステージ観覧券が当たっていたにもかかわらず、常識的な時間に会場入りをしてしまったがためにグッズはほとんど買えず、わずかに「白石のアクスタ」が手に入ったのみ…という悲しい状況だった。旬のアニメというのは恐ろしいもので、特に七夕イベントのような1日ものの場合、グッズを手に入れたければ非常識な時間の会場入りは常識であった。かつて、旧世界では。

 ところがこのコロナショックで、良くも悪くも「人が密集するは悪」という新常識が植え付けられ、イベント前の行列だとか、会計の混乱とかがすなわち「イベントの成功度」「評価」に繋がる価値観に(当然ながら)疑問が呈された。正直言ってこれでよかったと思う。イベントを普通に楽しんでお土産を買おうとしたら、イナゴが食い荒らした畑のように何も残ってないなんて、異常である。「そんなものは早入りする努力しないお前が悪い」みたいな風潮はいかがなものか。紳士的な時間に会場に入り、普通に土産が買いたい。

 七夕イベントのグッズはイナゴが食い荒らしたが、流石にその異常さは担当者もわかっていたようで、その後通販での補充もあった。ホッと一息である。こういうものは在庫数の読みが難しいのはわかるが、せめて入場時間をきちんと管理するなど、やりようはあると思うのだが… 

一部生き馬の目を抜くの形容詞がぴったりな界隈だが、流石に開始一週間ぐらいすると落ち着いている。私はこのコロナのせいでずっと取れなかった有給を1日使って、本日トライしてみたが、朝開店30分後ぐらいにいったら誰もいなかった。それでも新商品や限定商品は売り切れていたが。

しかしそんなことはどうせ構わない。今回の主目的は主にこのパネル展示への表敬訪問だからである。

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「ラッコ鍋」のシーンを大いに意識しているが、北海道人は桜の木の下でジンギスカンをやるそうなので、鍋の中身は多分ジンギスカン

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「どう見ても色っぽい」白石と、

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我らが麝香王子・キロちゃんである。

 

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どう見ても様子のおかしい民間人一派と、比較的節度のあるお茶会を開いている軍人一派の間に、良心の壁のように配置されるアシリパさん。イタタニ(にしては図太い)のしたに置いてある刀はなんだ。イマジナリー和泉守兼定かもしれない。

 

商品はご時世を鑑み、サンプルが飾ってあるところでサンプルを吟味しつつ、紙に欲しいものを書いてレジに提示する仕組みになっていた。注文表の印刷も馬鹿にならなかろうに…

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この通りすでに完売ものもあり。入荷の予定も無論あるが、いったその日に賄賂がちゃやりたかった。(北海道のジビエの幸の缶詰5種が、中身ブラインドで買えるというもの。シール付き。1個八百円)

 

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空前絶後の獣姦キャラ(しかし動物学者)、アネハタシトンの、等身大パネルまである。まさかこのキャラが…という気持ちはある。

 こういうキャラクターを造形するときにわかりやすい「気味の悪いキャラクター」にしないところが、野田サトル先生のバランス感覚だと思う。

 ちなみに野田先生は少年サンデーとの横断企画で高橋るみ子先生と対談した際(だったかと思う)に、このアネハタシトンはクリスマスイブの日、編集との打ち合わせをかねた会食で生まれたとおっしゃっていた。タイミングが良すぎるのか悪すぎるのか。何より「イブもお仕事なんですね」という気持ちになった(通常の会社はクリスマスイブはだいたい営業日だと思うが)。

 ブラインドなのでどうも通販で購入する気持ちがわかなかった缶バッジを5つかい、他にも木札ストラップなど、今自分の手持ちで薄いところを買って、帰った。お菓子はいつも脱獄王クッキーである。

 ダブった缶バッジをツイッターにアップして、トレードするまでがポップアップショップ。自引きできなかったキロちゃんを無事ゲットしたりした。

 

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今日のご飯。昼。

結局渋谷ではご飯を食べずに、帰ってから食べた。

 

冒険の真相

自転車スカート巻き込み事件の反省を踏まえて今日は運動用のスパッツを履いて行こう…スパッツ? 最近はレギンスとかいうべきなのだろうか。運動するときにはく、パツパツのあれである。レギンスだろうがスパッツだろうが根本的に違いそうな、なんか早く走れそうなやつ。自転車にも当然非常に快適に乗れる。そのまま働くわけにはいかないので、着替えを持っていかねばならないところが欠点だが、運動性が一気にA+になり射程距離も伸びるので積極的に履いていきたい。巻き込んだスカートは洗ったらめちゃきれいになったので今日履いていくことにして、荷物に入れる。

 これが後に英断になる。曇っていると思ったら小雨が降っていたのだ。上は乾きやすいTシャツ、したは運動レギンスという格好だからへいちゃらである。小雨の中、自転車を飛ばした。久しぶりの自転車は電車の中ほど人に合わない。合わないとなんだかちょっとつまらないような気がしてしまうのが面白いところだ。

 小雨の中走っているとちょっと悲壮な気分になってくるが、案外小雨ぐらいだと自転車に乗っている人は結構いる。一人ヒロイズムを発揮せんでも別に珍しいことではないんである。

 自転車というのは人によって乗り方スキルに結構差異のある乗り物である。人混みを縫うように飛ばす人(危ないからやめれ)、対向車や人がいるとやたらブレーキを軋ませて棒立ちになる人。ふらふらのおばあちゃん、傍若無人なおじいちゃん。こないだはカートのおばちゃんのために減速したらカマ掘ってきたお兄さんもいた。てめー畜生、下手なら乗るんじゃあねえ! と悪態をついた。すみませんえへへ、と笑っていた顔が妙に愛嬌があったのでつい許してしまった。

 ちなみに私の愛車はジャイアントのエスケープという、女性向けの車輪の小さめのクロスバイクである。滑らかな走りと、効率の良いペダル性能、信頼のおける鉄の馬ならぬまあせいぜいが鉄のキリギリスである。ボディも緑なのでキリギリスぴったり。しばらく自転車に乗っていなかったので、初めて乗り始めた頃はお尻の筋肉痛で苦しんだが、今はどうってことない。お尻がまだ痛かった頃に、茅ヶ崎まで単独往復をしたことがある。いろんなことがあって大冒険だったが、茅ヶ崎についたら清々しい気持ちになったかというと、ひたすらヘトヘトだった。「海が見えて、疲れが吹き飛んだ」とか虚言を吐きたいところだが、正直なところなんの感慨もなかった。そりゃ着くよ、漕いだもん、みたいな感想である。ほんと。家に帰り着いた頃には、体はくたくたなのに神経がとんがっていて、なかなか寝付けなかった。ドラクエなどの主人公も多分、宿屋についてもしばらくはギンギンと目が冴えているに違いない。そうして、道中で出会ったスライムやタホドラキー、あるいはツノのあるウサギなどのことを考え、思い出し、戦慄したりほくそ笑んだり、悔しがったりゾッとしたりするのだ。

 自転車に乗るときには必ず、この頃からずっとしている手袋をはめる。車のドライバーなどに合図を送るときも視認性が普通の手袋より少しだけ良いような気がする。自転車屋さんに「ネイルアートしてても嵌められますよ〜」と勧められたように、爪先だけ穴が開いている。普通に指ぬきでいいではないか、というとさにあらず、ロングライド時に指が日焼けしないようにUVカットであるから、爪がなんともないのであればできればフルで覆っていて欲しいところなのだ。

 自転車で通勤した日の方が、やっぱり少しばかり、精神が高揚したまま、帰宅することになる。よほど途中で食べて行こうか、お腹ペコペコだし、と思っていてもなんか知らんがご飯が作れるぐらいに、神経が目覚めている。ご飯を作って食べる。

 今日は豚バラ肉でほうれん草を巻いたものをレンジで温めて擬似しゃぶしゃぶを作った。栄養の相性は素晴らしい。

 

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