読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日月星辰ブログ

Vive hodie.

本を読むときには

どうしても気をそらしたくなる。

何か難しい本とか、まったくその辺の知識にとっかかりがない本を読んでいると、むやみに前の古巣系の本を買いあさる…んだよな。

大学生のころはミステリっていうか、いぬのマークのあればかり読んでいて、ふいに「あー京極よみてー」とか「有栖川よみてー」ってなるんでした。

で買った。

姑獲鳥の夏、で感じたものすごさ、斬新さ、美しさはさすがにもう感じないけれども、類い希な美しい文章を書く人だなあ、とは思う感性は未だ残っていた。文章自体が美しいのもあるけど、構成がまた綺麗なんだなあ。でも、綺麗すぎてどうも、こういう怪談物では、今ひとつ怖くない。するするすると入って行ってしまって、すかっと終わってしまう。ページを繰る手が止まらない、というのはまさにその通りで、本当にするするといくらでも読めるんだけれども、悪酔いしないで翌朝けろりだ。
久世輝彦は本作を美酒にたとえたそうだけれども、美酒は美酒でも悪い良い方はしない上等の蒸留酒だろ。
だって、はればれとしちゃったんだもの。ああよかったね、ってかんじなんだもの。こへいじも怖いというよりは可哀想というか、せいぜいがきもい、ぐらいだ。
多分、どんなに異常な人物だろうが、京極夏彦が地の文で語り出したとたんに、理路整然としたじぶんの理論を持った「人間」となってしまうから、怖くないんだろう。私が一番怖いのは、なにはなくとも狂気で、狂気ってのは理路整然とした理論があったら、狂気じゃないんだ。…たとえその人が、幻視をしようが、人とちがっていようが、論理があれば怖くない。ああ、そうなのね、と思ってしまう。

むしろ、みかけはふつうにしていても、理論もなにもなく混沌としているほうが、怖くない? くるってる、ってかんじがしない?

だから私はうぶめの頃から、そんなに京極作品は怖くない。むしろかっこいいヒーロー物みたいな読み方を、全般にわたってしてしまっているような、気がする。

で、いま何をそんなにがじがじと取り組んでいるのかというと、中国古典関連の書籍。書き下してあろうが訳文がついていようが、難しい物は難しい! まずさあ、語彙がね。…故事とか詳しくないと分からないし、地名は分からんし、熟語はちんぷんかんぷんだし、貴様、本当に東洋哲学を大学でやったのかい? と言われてもこまるぐらい、分からない。
大学では禅のほんとか読まされておりましたが、いやー、自分の馬鹿さ加減かあるいは怠惰さ加減にとほほ泣きしたくなるほど、難しかったです。いまはぜかハッキリ覚えているのは「兎角亀毛」っていう熟語ぐらいかなー。なー…。とほほ。