日月星辰ブログ

Vive hodie.

大塚エチュードにて吾妻ひでおを読み解く。

何を偉そうに。
アレを読んだのです、あれ。

失踪日記

失踪日記

手塚治虫文化賞の、今年の大賞だった作品。「自らをシビアに見つめた」とか「醒めた視点が」とか評されているあれ。

私がすきなエピソードは、配管工として活躍していた頃の吾妻先生が、社内報に漫画を連載するところ。なんか、「あしたのジョー」が地方のめちゃくちゃな興行を渡り歩く、と言うエピソードを思い出してしまった。
実は第1線のプロフェッショナルである(であった、でもよし)ひとが、まったく違うところに逃げていったり、とばされたり、して、ある期間自分が第1線のプロフェッショナルであった頃を忘れてしまうんだけれど、なぜかとばされた(逃げた)先でも昔と同じようなことを始めだして、それがひとの感動を呼び…あああれにも似ている「ガラスの仮面」でマヤが陥った苦境。テレビで活躍したあげくにスキャンダルで干され、地方の劇団にとばされるんだっけ。
これはいわゆる「貴種流離譚」というものではないか、そこが私の壺をついたのではないか、と思ったのでした。貴種というものがなくなった現在では、それは才能とかに取って代わるのさ。中田がメキシコの路上でサッカーを始めてもいいし(これはちとちがうか)、吾妻先生が警察の留置所で美少女の絵を描いても良い。これ、この悲哀と、希望。どん底にてきらりとひかるもの。
なぜ、こういった道具立てが好きなのかな? と自分で考えてみたところ、思うに私は、どん底に遭ったときにもしこんなきらりがあったら、きっと元気に生きていけるだろうな、という明るさが好きなのかもしれない。一条の光明。しかもそれは、主人公の身体の中にある。確かに。希望という言葉には実態らしきものはないが、この才能というやつは、希望の一形態である、と思うのだ。

わーどこが大塚英志風だったのかしらというと、「貴種流離譚だよ」というところかなと思うのですが、そこだけじゃん。だめじゃん。