日月星辰ブログ

Vive hodie.

成長

 士別三日、即当刮目相待。
 三国志・呉の武将、呂蒙の言。士たるもの、三日も会わなければかなり成長しちゃうんだぜ、という意味のようです。ネットで調べようとしたらまず、刮目を間違えて作ってしまいましたが、それでも検索結果が出るというぐらい有名な言葉です。ブラヴィッシーモをブラッシーモと作っても、とりあえずの意味は通じちゃうネットの凄さよ。っていうか、知識を微妙にうろ覚えしそうで恐ろしいですね。やっぱり出版物は偉大でした。
 閑話休題
 誰かが成長したり、自分が成長したりするのを見るのは、心地よい事です。特にその成長がよりめきめきであればあるほど、心地よいです。証拠に成長物語というのは、かなり好まれるようで、マンガの主人公は必ず二度や三度は、めきめきと成長するようです。
 成長物語は、なにせひたすらに清清しく、そこのところが重要なエッセンスでもあり、誰かの成功物語であるにもかかわらず、微妙に、嫉視や羨望からは距離をおいた、清らかな位置に居るのは、ついつい物語に感情移入してしまうからなのか、母性ないしは父性(?)本能からなのかは分かりませんが、とにかくいくらどろどろしていようが、本気で清清しかろうが、あまり嫌な気持ちにならない、珍しいストーリーパターンだと思います。
 しかし、ある人間に着いて、「成長した」と定義付けるのは現実ではなかなか難しいところです。実際、成長物語の場合、主人公が成長に気が付く瞬間が、読者にとっての最高のカタルシスでもあります。例えば、昔散々苦労した敵にあっさり勝てるようになるとか、あんなに難しいと思っていて、もうほとんど無理だと思っていたエチュードが出来るようになるだとか、無学な暴れん坊が一念発起して司令官になるだとか。あれ、なんであんなに気持ちいいんでしょうね。自分が出来るようになるのは、確かに気持ちいいだろうなあ、と思うのですが、マンガの主人公の場合は少なくとも、自分自身ではないのに、なぜかひたすらに清清しい。普段どんなに感情移入できない主人公にも、その瞬間、感情移入してしまっていたりして。
 それを、ヒーローだって努力してこうなるんだぞ、とか言って、殊更に教訓めかした解釈をすると、とたんに嫌な感じになるんですが、この、成長物語のカタルシスって、じつは逆のところにあるんじゃないか、と今週一発目から思ったのでした。
 成長物語のカタルシスは、じつは、努力が報われた感動のほうにあるのではなくて、以前の強敵を見下ろすちょっとした優越感にこそ、あるのではないかと。
 はじめの段階でのへぼ敵でよく出てくるタイプって、だいたいにおいて救いようの無い嫌なタイプが多いですよね。虚栄や虚飾を鼻にかけたやなかんじの人の場合が。でも、そんな人たちに主人公が虐げられたりして、ああ、報われないなあ、とか、あいつやな奴だなあ、というぼんやりとしたフラストレーションがたまってきて、そういうのを、見返してやる! というところに、成長物語の本当の意味でのカタルシスがあるのではないか、と思うのです。やなマンガの読み方。
 といったことを今週のジャンプのアイシールドの、恋ヶ浜キューピッドさんを見て思いました。
 でも、往々にしてこうして克服したライバルさんは、後々ちゃんと友達になれるのでジャンプは安心です。

 それから、アイシールドの場合は、超えて来たライバル達の逞しさが強調される事によって、かつてのライバルの卑小さみたいなのを浮き彫りにさせる…というこれまた爽やかなんだかなんだかなんだかなテクニックも使われてい、物語における快の要素って一体なんなんだろう、と悩んでいたらだんだん眠くなってきました。私には難しすぎる問題です。

 ああ、やっぱり最近駄目だ。後ろ向きだ。私も三日で成長したい(微妙に意味を履き違えている)。