日月星辰ブログ

Vive hodie.

「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」

あれ? これあれ、初めのバーニィさんも怪しいよね?

 

「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」が面白かったのでこれはディック祭りをしようかな、と思って次はこれだ、と選んだのが本作です。なかなかいい選択だったと思う。

 ディックはねー、何を書いてもネタバレになるからねー、などと脳内大学生さんがほざいているが、本作およびアンドロイドについてはそうだねそのとおりだねというかんじ。伝説的な作品でファンも多いけど、あらすじについてさかしらに語っている人ってあんまりみないよなあ…なんでだろうなあ… と思ってたけど、なるほどそういうことか。

 

 ディックについてはあとは「ヴァリス」しか読んでないので、私にはまだ無限の楽しみが残されている。まあ「ヴァリス」についてはよく覚えてないけど。

「アンドロイド」と本作はかなり印象に残ったので、これで晴れて「読みました」といえる。ようやく。

「アンドロイド」にしても、「パーマー」にしても、ディックは「権力側」と「底辺」を登場させてそれぞれに結構綿密に書き込んでいる。「アンドロイド」ならリック・デッカードが体制側でイジドアが底辺。「パーマー・エルドリッチ」ならレオ・ビュレロやバーニィ・メイヤスンが権力側で火星に住む人々が底辺である。「アンドロイド」では人間と人造人間の決定的な差異を、「パーマー・エルドリッチ」では真実らしい体験とまがい物の体験がいかに見分けにくいものなのかを、それぞれ書き表している。

 はっきりと言葉には出来ないが、一目瞭然のアンドロイドと人間の差異。幻覚と現実の見分けが徐々につかなくなる不可分性。

 ところがこの二つとも、根底に流れている哲学はどうやら同じもののようで、人間の思考や精神などというものがいかに危うくて、ひょっとするとまがい物でも十分通用して、…とはいえ決定的に人間を人間たらしめている。「アンドロイド」のリックは自分を『ひょっとしてアンドロイドなんじゃないか』と疑い続け、「パーマー・エルドリッチ」のバーニィもまた、今この現実が果たして幻覚か本当か、を常に疑っている。

 

年中行事に乾杯したい

 年中行事にはなんとなく参加したい。

 若い人は馬鹿にして手を抜くんじゃないの? というのは、個人的には90年台で終わっている。オワコンである。これからはこういうのには積極的に参加してあわよくば飲みたい、くらいの意気込みで参加すべし。何しろ年中行事は何かにつけて酒を飲む。

 シリーズ小説や漫画で季節感を出すのに、年中行事を使うのは定石である。特にお正月の光景、というのはネタになりやすい。かつて隆盛を極めた学年誌の漫画なんかだと1月発売号では必ずキャラクターが紋付きや振り袖を着て「新年、あけましておめでとうございます」というふうにご挨拶をしていて、後日その絵がいろいろ便利に使われる。年賀状のライセンス商品とか。

 特にお正月は、いろいろな「アイコン」がある上に、他の年中行事に比べてもまだまだ、大切にされているように感じる。どの年中行事も一年にその季節だけ、のはずで、何も正月だけが特別なわけじゃないのだけど。これは伝統のなせる技なのか。区切りの問題なのか。はたまた、お正月合併号とか、年末進行の問題なのか。

 

 ここ最近ではしかし、これに更に「冬コミ」が加わるようになった。ただでさえクソ忙しい時期に仕事とはちょっと趣の違う作業が入る。今年は、この冬コミにも参加してきた。

 唐突だが、もう隠蔽しているのも面倒くさいので今年からは改めて腐女子カミングアウトをしておく。日記の古い記事を確認すればすぐにわかるし、いまさら隠しても言葉の端々に現れるから無意味であろう、おまけに最近は世も末なことに腐女子は「ステータス」らしいじゃないですか。おほほ ちょっとあてくしにはよくわからなくってよ。まあ、隠そうが暴露しようが、どうでもいいやと思っている人にはどうでもいいことだし、嫌悪を感じる人にとっては相変わらず嫌悪感があるんだろうから、だったら黙っているよりそうですよと断っておいたほうがお互いのためだ。

 何の話をしていたんでしたっけ。ああ、冬コミ。去年の話なんですけど、日程がみごとに29〜31日、だったのでした。帰りの電車の隣の席のカップルが「この辺まで来ると、コミケの人いないね」「そうだね」などと話していた。別にその眼差しや口調にも侮蔑も嫌悪感も無く、それほど、「年末の薄い本買い出しの客」は一般化しているということだろう。まさか隣にステルス性コミケの人が座っていようとは…思わなかっただろうな…。

 その後、ニュースで見た「一般参賀」の皇居前で、黒いダウンジャケットの群れが早足でなんかあの、テラスみたいなのの前に急ぐ姿を見て、なんかアレ、コミケに似てるなと思った。崇拝? 特別感? 希少価値? なにかわからないけど、黒いダウンジャケットの人を走らせる共通のものが、皇居一般参賀天皇陛下と、あの時期の東京ビッグサイトが、醸し出しているのかもしれない。

 それは死せる孔明をも走らせるのかもしれない。

 

今週のお題「年末年始の風景」

 

 

何度も同じ映画を見るほどヒマじゃないんじゃない

お題「何回も見た映画」

 

いつの間にかはてながまるでソシャゲみたいになっていた。嫌いじゃないどころか、ノルマを課せられるとついやってしまおうと意気込んでしまう。実際にすべてを達成することはごく稀である。

 その昔、乙女の集った同人サイト界隈では「100のお題」というものがあった。今なら、Twitterの診断メーカーであろうか。不思議な事に、絵のサイトよりも小説のサイトで、この「お題」ブームは盛んだったように思う。私も未だに引きずっている100のお題がある。時たま思い出したようにやってみようとしては中途半端で投げ出しつつ、そろそろ8年ほどが経とうとしているが、まあいいじゃないかそんなことは。

 

 同じ1本の映画を何度も見ている人、というのも近頃ではさして珍しくなくなった気がする。映画1本1800円、というのもあまり問題視されていないどころか、物によっては2000円以上するそうじゃないの。そんなもの、よく何度も何度も見るよね、正気の沙汰じゃない、というよりも、すごいね、映画ファンだねかっこいい、みたいな感じで受け止められている …のだろうか? まあ、オタク界隈では少なくとも「熱心な俺」「キモオタかっこわるい」が裏返って密かな自慢になっているような気はする。

 

 私は、ヒース・レジャーがあまりに役にのめりすぎて命を落としたというクリストファー・ノーラン監督版の「バットマン」3部作の2本め、「ダークナイト」を何回も見た。白状すると、それ以外の映画はそれほど何回も見てない。ノーラン版「バットマン」も、ビギンズもライジングも1回きりだし、同じくノーラン監督の「インセプション」も1回か2回くらいだったかな(2回見たのはよくわからなかったからである)。

他に何度も見たのはだいたい「よくわからなかった」という理由であり、「裏切りのサーカス」とかも好きなんだけどよくわかんないから劇場で3回見てDVD買いました。DVDを買うのは「なんか好きだしわかりたいけど劇場だとメモとか取れないしストップモーションできないので仕方なくメモ代わりに」というケースも多い。

 が。が。「ダークナイト」な何故か非常に「刺さった」。好きな俳優が出てたわけでもない。ただひとつ、少し期待があったとするなら、子供の頃に珍しく名古屋の劇場で見たティム・バートンの「バットマン」が意識の奥底にこびりついていた。死んでなお馬鹿笑いを残すジャック・ニコルソンのジョーカーがとても恐ろしく、今見るとなんてこと無いんだけど、とにかくものすごく怖かった思い出がある程度で、まあ、「バットマン」ならアメコミでもみてもいいかなくらいのものである。今でもたまに考えるのだが、未だにどこが一体「刺さった」のか、よくわからないけど良かった。できれば実際に病院が爆破されたシカゴに行きたかった。シカゴはかなわなかったけど、別の理由で「自らの趣味のためには散財を辞さない」友達とハリウッドまで行った。コスプレの人にレイチェル・ジョーカーごっこをしてもらった(1ドル払いましたけど、あれで1ドルというのは高いのか安いのかわからない。結構遊んで貰える)。ワーナー・ブラザーズの博物館でジョーカーのコスチュームをすごい近くで見たり(匂いを嗅いだり)、「WRITER」とか書かれたマグカップを買ったりした。なかなか痛い。

 あの作品は徹頭徹尾、割りと気が抜けず、間延びもせず、見終わった後すごい長くてエキサイティングな夢を見て目が覚めたような感じで、寝汗をいっぱいかいていた。寝てないのに。結構長い作品だから、ぜったいどこかで中ダレするだろと思ったけど、しなかった。だいたい長い作品って途中で時計を見ちゃうくらいせっかちくんなんだけど私。すごいな、天才や、ノーランさんすげえ、などとひとしきりしゃっくりみたいにびっくりしながら、帰路についた。水曜日の、レイトショーの、新宿ピカデリーだった。すでに映画は公開されてから数週間が経ち、興行もさほど良くもなく、ロードショーは粛々と、ひっそりと、終わろうとしていた。その矢先。

 

 

仮往生伝試文

 

こんな「小説」を書いて、高く評価されるなんて。ずるい。と思った。

 

小説として、プロットがかっちりあるように、一読では見えない。一読して、これを書く前に思い返してみてもやっぱり、随想の断片みたいな感じしか残らない。もっと違う読み方をしてみると、「おわあ」って俄に啓けるものがあるのか…。

ただ、よくいわれる「日本一の美文」というのだけはほんとにつくづくわかった。いや、すごい。何気ない日常みたいなのでこんなに読ませる文章ってなかなか見当たらない。これぞ美文、多分現代日本語で書かれた文章の最高峰、っていうのもそうなんだろうなとは思う。逆に言うとそこしか読み取れない自分が歯がゆい。どうも私は、砂浜をうつむいて、ひとつひとつ綺麗な貝殻を拾うようにしか本が読めないんだと思う。小ネタとか、キャラクターのちょっとした印象に残る描写とか、いいセリフとか、そういうのを拾うのは得意だけど、こう、遠景を眺めてほう、というのは苦手な気がする。

 こりゃ人生を半分損しているな、と思うので、慌ててプロップ入門みたいな、「物語の法則」などにすがってみているものの、それはそれとして、古井由吉ですよ。

 

 文庫の後ろの表紙(業界用語的には、表4とかいうのだろうか)に、編集者がひねり出したあらすじとかが載ってるじゃないですか。そこをちょっと引用すると、普通の小説読者なら「ん?」って戸惑うと思う。私も戸惑った。どうしてそうなる。

 

寺の厠でとつぜん無常を悟りそのまま出奔した僧、

初めての賭博で稼いだ金で遁世を果たした宮仕えの俗人――

平安の極楽往生譚を生きた古人の日常から、中山競馬場へ、

人間の営みは時空の切れ目なくつながっていく。

 

 

 えええ。

 中山競馬場=古井の日常、っていうことでいいの? いいんです? いいんですか?

 私が馬鹿なのか。

 

 

日本文学の可動域を限りなく押し広げた文学史上の傑作。

 

 

 あっはい。

 

 いや、あの、誤解を招きそうなので言っておきますけど、私はこの本で完全に古井由吉にドハマリしました。新刊の「雨の裾」も買おうと思ったし、競馬本もちょっと欲しいと思った。とりあえず、大学時代に真面目に読まずにいたのを激しく後悔した。

 

 でも…これができるのは、古井由吉だからだよね、という気分も満載。そして多分、凡百の作家が同じことをしたらやっぱりみんな、怒るんだろうな、とも思った。どうなんだろう。まあ、いまから同じことはどのみち出来ないんだろうけど。

 

 私の好きなエピソードは、「今暫くは人間に」の、解説にもある賭博で得た金で出家する男のお話。月の半々で別の家の屋根で読経して、老後余生を暮らすってやつ。ああ、これなら人知れず死んで、穢を長々と終の場所に残さなくて良いし、評判にもなるし素晴らしいじゃんね、何しろ衆人環視の中ですから、と思いました。この往生はいいな。あと競輪場の描写がすごかった。大作家の目にはそう見えるのか。馬でなく、人に賭けている、というなにかがそうなるのか。

 やっぱり貝拾いくらいしかできてない。出直してきます。

 

 小説って…幅広い。

映画 キングスマン

予告編を一度きり見ただけで、「これは見ねば」と思っていたのですが、公開日からしばらく経ったあとにのそのそと足を運ぶ仕儀になった。

 

あらすじをご紹介するとあまねくネタバレになりそうな筆運びで、いわゆる「よく出来てる」部分もあり、かと思うと相当ラフに描かれている部分もあったような気がします。「成長・継承譚」としてはいっそシンプルなプロットなんだけど、モチーフが凝っている。

 描いているものは若干アナクロな、でも相当ハイテクな「英国スパイ」。先日読んだ「キム・フィルビー」によれば、英国スパイというのは超エリートの世界らしく、庶民にとっては「スノッブでいけすかん」人々ということになろうか。それを、なにせ英国王を演じられるサイコーに洗練されたコリン・ファースが演じる、という。

 アクション俳優というと相当最近まで、汗臭くて知能というよりは肉体、というイメージでしたが、コリン・ファースにみっちりアクションを演じさせた、というのが多分この映画の肝なんだと思う。

 日本だって格差社会だなんだ、と言われるけど、英国はもっと長年の伝統としての階級が残っており、家柄、話す言葉、住むところ、ひいては選ぶ職業までしばらくがっちりわけられていたそうで、だからこそ、「マイ・フェア・レディ」みたいな物語が実感を持って語られるのでしょうが、逆に言うと様式と資質さえ身につければ、「誰でも紳士になれる」というのがこの映画のテーマらしい。監督のマシュー・ヴォーンはウィキペディアによれば実は英国貴族の末裔だそうで、俳優も上流階級の出身の人が多いあの国の「演劇」の伝統はやっぱりすごいなと思う。日本だと「河原者」といわれる芸能の世界が、あちらではけっこうノーブルなものなのかな。

人間、軍隊なんかで生活できるようにはできてないもんですよ と従軍経験者は語る

小説として読むと若干、「読みづらい」と評判?の小島信夫ですが、ことこの主題に置いては、その、喉に小骨が刺さるかのような、アナログのテープを、のべつにキュルキュル、巻き戻しては少し聞いてみたり、慌てて早送りしてみたり、引き伸ばして再生してみたり、というような、なんとも言えない文体がしみじみ、味わい深いような気がする。

 

戦争の勇ましさも、ドラマチックさも、悲しみすら何もない。だらだらと続く日常の延長線上にある「戦争」。小島信夫の描くのは、主に自身が従軍したという中国戦線である。

高慢な若者の上官に適当なことを言われてみたり、隊長であっても部下の横溢なやつに翻弄される気弱なのがいたり、もうここに書いてあることは21世紀の日本の企業内部の陰鬱な人間関係と多分さして変わりがない。人間というのは過酷な境遇に置かれても案外普通に、人間をしている。ちょっと違うところといえば、肉体的に追い詰められているために、中の人間関係もゆがみやすい、というところだが、ドラマチックで陰湿ないじめや、奇跡的なチームワークというものは、まあ、やっぱりどこに言ってもごくまれな現象なんだな、と思う。

つまりはこの戦争小説、どこひとつとしてかっこよさげなところはない。どこまでも日常の延長のつまらないもので、その代わり環境と肉体ばかりは過酷である。はっきりいって損。肉体の酷使の果てにはなにかしらの激烈なドラマがあってほしい、と思うものだが、そういうのは戦闘そのものにこそあるのかもしれないけど、そんなものに巻き込まれたら死ぬか殺すかなのであって。正直言ってドラマを体験するために云々というにはちょっと、ハイリスクだ。そのくせリターンは全然悪い。

正直言って、例えば手塚治虫が若干興奮ぎみに語る大阪大空襲の描写より数倍、「戦争っていやだな」と思える作品で、こういうものこそ盛んによまれて、そうして戦争なんぞにロマンを抱いているアホな人々の脳髄を精神的に粉砕してもらいたい。手塚は手塚で、自らの体験から心の底から「ごめんだ」と思って描いているはずなのだけれど、天性のストーリーテラーの性なのか、かなりドラマチックで、そんなに悪く無いのではないか? とまかりまちがって思ってしまうような節がある。

その点、小島信夫の作品は、どこまで行っても広がっているのは灰色の空で、リア充がのさばり、非リアが虐げられる。環境が過酷なだけ、その点はとりわけ厳しい。日本人には広すぎる大地から、ぼんやりと城壁が消えたりする。ぜんぜん楽しくなくて、憂鬱で、つらいばかりの戦争がたしかに書かれている。