日月星辰ブログ

Vive hodie.

あけましておめでとうございます

関東の割に中ぐらいのところにいます。f:id:lubu:20160101233613j:image

仮往生伝試文

 

こんな「小説」を書いて、高く評価されるなんて。ずるい。と思った。

 

小説として、プロットがかっちりあるように、一読では見えない。一読して、これを書く前に思い返してみてもやっぱり、随想の断片みたいな感じしか残らない。もっと違う読み方をしてみると、「おわあ」って俄に啓けるものがあるのか…。

ただ、よくいわれる「日本一の美文」というのだけはほんとにつくづくわかった。いや、すごい。何気ない日常みたいなのでこんなに読ませる文章ってなかなか見当たらない。これぞ美文、多分現代日本語で書かれた文章の最高峰、っていうのもそうなんだろうなとは思う。逆に言うとそこしか読み取れない自分が歯がゆい。どうも私は、砂浜をうつむいて、ひとつひとつ綺麗な貝殻を拾うようにしか本が読めないんだと思う。小ネタとか、キャラクターのちょっとした印象に残る描写とか、いいセリフとか、そういうのを拾うのは得意だけど、こう、遠景を眺めてほう、というのは苦手な気がする。

 こりゃ人生を半分損しているな、と思うので、慌ててプロップ入門みたいな、「物語の法則」などにすがってみているものの、それはそれとして、古井由吉ですよ。

 

 文庫の後ろの表紙(業界用語的には、表4とかいうのだろうか)に、編集者がひねり出したあらすじとかが載ってるじゃないですか。そこをちょっと引用すると、普通の小説読者なら「ん?」って戸惑うと思う。私も戸惑った。どうしてそうなる。

 

寺の厠でとつぜん無常を悟りそのまま出奔した僧、

初めての賭博で稼いだ金で遁世を果たした宮仕えの俗人――

平安の極楽往生譚を生きた古人の日常から、中山競馬場へ、

人間の営みは時空の切れ目なくつながっていく。

 

 

 えええ。

 中山競馬場=古井の日常、っていうことでいいの? いいんです? いいんですか?

 私が馬鹿なのか。

 

 

日本文学の可動域を限りなく押し広げた文学史上の傑作。

 

 

 あっはい。

 

 いや、あの、誤解を招きそうなので言っておきますけど、私はこの本で完全に古井由吉にドハマリしました。新刊の「雨の裾」も買おうと思ったし、競馬本もちょっと欲しいと思った。とりあえず、大学時代に真面目に読まずにいたのを激しく後悔した。

 

 でも…これができるのは、古井由吉だからだよね、という気分も満載。そして多分、凡百の作家が同じことをしたらやっぱりみんな、怒るんだろうな、とも思った。どうなんだろう。まあ、いまから同じことはどのみち出来ないんだろうけど。

 

 私の好きなエピソードは、「今暫くは人間に」の、解説にもある賭博で得た金で出家する男のお話。月の半々で別の家の屋根で読経して、老後余生を暮らすってやつ。ああ、これなら人知れず死んで、穢を長々と終の場所に残さなくて良いし、評判にもなるし素晴らしいじゃんね、何しろ衆人環視の中ですから、と思いました。この往生はいいな。あと競輪場の描写がすごかった。大作家の目にはそう見えるのか。馬でなく、人に賭けている、というなにかがそうなるのか。

 やっぱり貝拾いくらいしかできてない。出直してきます。

 

 小説って…幅広い。

映画 キングスマン

予告編を一度きり見ただけで、「これは見ねば」と思っていたのですが、公開日からしばらく経ったあとにのそのそと足を運ぶ仕儀になった。

 

あらすじをご紹介するとあまねくネタバレになりそうな筆運びで、いわゆる「よく出来てる」部分もあり、かと思うと相当ラフに描かれている部分もあったような気がします。「成長・継承譚」としてはいっそシンプルなプロットなんだけど、モチーフが凝っている。

 描いているものは若干アナクロな、でも相当ハイテクな「英国スパイ」。先日読んだ「キム・フィルビー」によれば、英国スパイというのは超エリートの世界らしく、庶民にとっては「スノッブでいけすかん」人々ということになろうか。それを、なにせ英国王を演じられるサイコーに洗練されたコリン・ファースが演じる、という。

 アクション俳優というと相当最近まで、汗臭くて知能というよりは肉体、というイメージでしたが、コリン・ファースにみっちりアクションを演じさせた、というのが多分この映画の肝なんだと思う。

 日本だって格差社会だなんだ、と言われるけど、英国はもっと長年の伝統としての階級が残っており、家柄、話す言葉、住むところ、ひいては選ぶ職業までしばらくがっちりわけられていたそうで、だからこそ、「マイ・フェア・レディ」みたいな物語が実感を持って語られるのでしょうが、逆に言うと様式と資質さえ身につければ、「誰でも紳士になれる」というのがこの映画のテーマらしい。監督のマシュー・ヴォーンはウィキペディアによれば実は英国貴族の末裔だそうで、俳優も上流階級の出身の人が多いあの国の「演劇」の伝統はやっぱりすごいなと思う。日本だと「河原者」といわれる芸能の世界が、あちらではけっこうノーブルなものなのかな。

人間、軍隊なんかで生活できるようにはできてないもんですよ と従軍経験者は語る

小説として読むと若干、「読みづらい」と評判?の小島信夫ですが、ことこの主題に置いては、その、喉に小骨が刺さるかのような、アナログのテープを、のべつにキュルキュル、巻き戻しては少し聞いてみたり、慌てて早送りしてみたり、引き伸ばして再生してみたり、というような、なんとも言えない文体がしみじみ、味わい深いような気がする。

 

戦争の勇ましさも、ドラマチックさも、悲しみすら何もない。だらだらと続く日常の延長線上にある「戦争」。小島信夫の描くのは、主に自身が従軍したという中国戦線である。

高慢な若者の上官に適当なことを言われてみたり、隊長であっても部下の横溢なやつに翻弄される気弱なのがいたり、もうここに書いてあることは21世紀の日本の企業内部の陰鬱な人間関係と多分さして変わりがない。人間というのは過酷な境遇に置かれても案外普通に、人間をしている。ちょっと違うところといえば、肉体的に追い詰められているために、中の人間関係もゆがみやすい、というところだが、ドラマチックで陰湿ないじめや、奇跡的なチームワークというものは、まあ、やっぱりどこに言ってもごくまれな現象なんだな、と思う。

つまりはこの戦争小説、どこひとつとしてかっこよさげなところはない。どこまでも日常の延長のつまらないもので、その代わり環境と肉体ばかりは過酷である。はっきりいって損。肉体の酷使の果てにはなにかしらの激烈なドラマがあってほしい、と思うものだが、そういうのは戦闘そのものにこそあるのかもしれないけど、そんなものに巻き込まれたら死ぬか殺すかなのであって。正直言ってドラマを体験するために云々というにはちょっと、ハイリスクだ。そのくせリターンは全然悪い。

正直言って、例えば手塚治虫が若干興奮ぎみに語る大阪大空襲の描写より数倍、「戦争っていやだな」と思える作品で、こういうものこそ盛んによまれて、そうして戦争なんぞにロマンを抱いているアホな人々の脳髄を精神的に粉砕してもらいたい。手塚は手塚で、自らの体験から心の底から「ごめんだ」と思って描いているはずなのだけれど、天性のストーリーテラーの性なのか、かなりドラマチックで、そんなに悪く無いのではないか? とまかりまちがって思ってしまうような節がある。

その点、小島信夫の作品は、どこまで行っても広がっているのは灰色の空で、リア充がのさばり、非リアが虐げられる。環境が過酷なだけ、その点はとりわけ厳しい。日本人には広すぎる大地から、ぼんやりと城壁が消えたりする。ぜんぜん楽しくなくて、憂鬱で、つらいばかりの戦争がたしかに書かれている。

 

キム・フィルビー かくも親密な裏切り とか読んでました

このブログをサボっている間に結構いろいろ読んだ。最後の記事の日付が8月3日だからサボり始めてもう2ヶ月になんなんとしている。

 

『詩的思考のめざめ』姉妹編(ちなみに小説のほうが姉ということである)である『小説的思考のススメ』も割りにすぐに読んで、その影響で小島信夫とか古井由吉に手を伸ばし始めた。あの本も「あ これ読んでみたい」に満ちていたし、平易かつとてつもなく示唆的で、今まで読んだ小説の読み方ってなんだったんだろうと思ったのですが、それを書くまもなく8月と9月が過ぎ去っていき、途中に『史記』を読み、開高健佐治敬三がいかにラブいかを微に入り細に入り描いたこーんな分厚いアレを読み、その他…アレ意外とそんなに読んでないか? 戸川昌子の往年の名作、猟人日記も読んだ気がする。あと「ゴーレム100」とか。読書日記やっぱり付けたほうがいい。

 

枕にしては惨憺たる出来ですが、昨日「キム・フィルビー かくも親密な裏切り」を読了しました。iPhone 6Sに機種変更しようと思って早めにソフトバンクショップに行ったら手続きにえらい時間が掛かってしまい、あと2章ぶん残っていたこの本を持って行ったら読了してしまった。

 しかし、第二次世界大戦〜冷戦終結までの国際情勢にあまり詳しくない頭で読みだしても、なかなかこの本の肝はわからないような気がする。冷戦がいかに深刻だったか、その萌芽がどれぐらいシリアスな状態ですでに大戦当時からあったのか。そのあたりがあまり心身に刻み込まれていない私などが読んでも、なかなかにピンと来ない点も多々ありました。事件の概要についてももう少し詳しい知識が必要である。

 その程度の「国際意識」ででも、頑張ってル・カレとか読んでいたのですが、どうも私が楽しんでいたのはスパイの二重生活そのものだったような気がします。日常生活の細部の細部まで注意を払い、記憶し、毎日完璧にキッチリした勤務態度と生活を心がけ、数カ国語を操り、あくる朝にはイスタンブールにいたりモロッコにいたり、なんだか高尚な警句やらをフランス語とかラテン語とかで口走り、最高の仕立てのスーツに、きれいに巻いた傘でしょ!? あとメガネ。

 あますところなく、あの階級制度の厳しいイギリスの上流階級のお坊ちゃんたちが、ふんだんに金と脳みそとユーモアの限りを尽くして、でやってることは人を騙したり騙されたりですよ。それも国家の頂点での綱渡りですよ。楽しそうだな。いいな。でも自分が放り込まれたら三分でべろべろに酔っ払ってテムズ川に浮く。

 ダンディズム、というのともちょっと違う、ジェントルマンシップに基づかないジェントルマンたちのこそこそとしたそういうのを想像するだけでなかなか楽しい。日本で言うとスパイって「忍者」だけども、英国スパイってのはやっぱり007みたいなあの感じなんだろうな、と思った。おしゃれで、格調高くて、背広とか着てる。

 国際情勢に真っ暗なのはとりあえずおくとしても、事前に映画『裏切りのサーカス』(ル・カレのスマイリー三部作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の映画版)を見ておいたので、絵的な予習はバッチリでした。あれは主役をかのゲイリー・オールドマンが演じ、今大人気のコリン・ファースやらベネディクト・カンバーバッチやらといった英国俳優がわんさか出てきてて、もう、もう、ありがとうございますじゅうぶんでございます、と言いたくなりようなどシリアスで憂いのある演技を美しい映像で見せてくれるのでたいそう気に入ってブルーレイ買いました。でも一番かっこよかったのはゲイリー・オールドマンコリン・ファースもペネディクト・カンバーバッチもワキといえばワキなので、そこは一流どころらしくシテを立てたということなのでしょうか。MI6の一番偉い人を「C(コントロール)」っていう、とかそういう知識はね、知ってたからね。まあ、ル・カレはそれよりちょっと前にはまって、文庫になってる奴はとにかく買い集めて読んでました。新作の、ロシア人亡命者のお話も良かった。

 さて『ティンカー〜』のモデルとなったのがこのキム・フィルビー事件だということですが、まあ要する一番えらくて切れものだと思ってたスパイが、実は敵の駒だったって話で、獅子身中の虫どころか、獅子身中の胆嚢あたりがまあ虫みたいな、空恐ろしいお話なわけです。こういう物語の一番美味しいところは、それがバレそうになる瞬間だと思うのですけれども、そこを記者会見で切り抜ける、というシーンがなかなか秀逸ですばらしい。その記者会見は今でもMI6の教材としてスパイのみんなに見られているとのこと。いったいどんな会見をしたら、真っ黒な人が真っ白になれるんだろう。すごく興味ある。

 小保方さんも、佐野さんも、佐村河内さんも、そのビデオみればよかったのにね…

 

 ペテンにかけるなら命にかけて、名誉にかけてヤレ。

 

 実際、キム・フィルビーは逃げ切った。逃げ切ってソ連に行くわけですが、その後が幸せだったのかどうかは置くとして、その友人にして彼に最後の引導を渡したニコラス・エリオットの晩年の様子などをこの本から読むぶんには、二人は思う限りに戦って、満足してるみたいな気がしました。どっちが勝ったか、は二人のみぞ知る、というか、もしかしたらお互いに「オレが勝った」と思っていそうですが。

 二人の対決には多くの犠牲者がでているわけですが、中でも可哀想なのはCIAのジェームス・アングルトンだとおもう…

 

 

 

「詩的思考のめざめ」まじ良かったから早く感想書きたかった

書きなぐる。

 

いや、まじで面白かったし。

 

阿部公彦先生のファンになりました。読了の勢いでこのシリーズの前作「小説的思考のススメ」もぽちりました。

もともと、詩は嫌いじゃないです。むしろ好きなほう。小学校の時に賞をもらったり、貼りだされたりしたものはだいたい、そのあたりでした。標語とか、詩とか。読書感想文は苦手でしたが…

言葉のナマの匂いを「嗅ぐ」のなら、詩がいちばんだ、とも思う。でも、「読み方」となると甚だ、心もとない。

まあ、いいや楽しいし、で放置して約40年間。それを丁寧に、優しく、かつ易しく説明してくださっている本にようやくめぐりあい、「それな」となったわけです。

 

もっとも、「それな」なんてエラソーなことを言って、自分の脳内で起こっていた出来事は皆目説明できなかったわけですから、褒められたものじゃありません。阿部先生はほんと、多分、10人聞いたら10人が「それな」と思うように、この不可思議な「詩なるもの」を説明している。ありがた。

「小説的思考」のほうでは、「小説はそもそも分からない」と突き放す先生、詩に関しては、「詩はもともとそこにある」とひどく親密です。はじめに、にこんなことが書いてある。

おそらく私たちはどこかで、自分なりのやり方で「詩」を知っているのではないでしょうか。教わらなくても、本を読んで勉強したりしなくても、なんとなく詩の居場所に心当たりがある。気配を感じ取ったり、作用に敏感に反応したりもできる。しかし、それ以上はなかなか踏みこまない。意識化したり、言語化したりもしない。 

 これ。これなんですよ。「それな」ポイント。 さらには、詩には「入門」せず、「そこから出て行く」ことこそがいい、という視点が、キー・ノートになっています。この禅問答が最後にはちゃんと腑に落ちる、そこがすごい。

 

 詩の居場所についての説明とか、「詩は単価が高い」とか、高村光太郎の「牛」は負けゲー、とか、例えがいちいち笑える。谷川俊太郎のトリッキーを「おなたうた」で説明する。とかいって、鞄の中にも、背広の背筋にも、確固たる学識と、明晰な理論を用意されている。最強と言わずしてなんというか。語り口のキャラ立ちと言い、論じられていることはすごく難しいのに、無理せずすっと入ってくる。

 こんな講義聞いてみたいよね、と思ったら東大文学部の准教授でした。あら。20年も前にこの本に出会っていたら、血が出るほど頑張って、東大目指したかも。ほんとに。

 それぐらい。

 

ここ数日、

淡々と読んだ本について呟いてきた。私はそれほど読書家でもないし、目から鼻へ抜けるような賢さも持ち合わせていないので、たどたどしく、感覚的に、順不同に、思いついた順に、発作的に並べ書いているにすぎない。読みづらいことと思います。

 

でも、本を読むのって面白い。映画評やアニメ評、あるいはゲーム評のほうが人気はあるのかもしれない。出版会はじわじわと衰えているのかもしれない。衰えているって言っても年間2兆円規模の市場だって聞いたことがある。ぜんぜん衰えていやしないじゃないか。確かに漫画が出版業界を下支えしているらしい。本読みの中でも漫画だって本なんだという人もいる。でも、私はあくまで、文字で書いてある何がしか、にこだわる。

 

「文字の伝達力が低い」とか「映画や漫画に比べて無害」などという、文字に対する感覚が摩耗したようなことをうそぶくようにはなりたくない。