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「荒木飛呂彦の漫画術」レビュー

 

目次

はじめに

 なぜこの本を書くのか

 

第一章 導入の描き方

第二章 押さえておきたい漫画の「基本四大構造」

第三章 キャラクターの作り方

第四章 ストーリーの作り方

第五章 絵がすべてを表現する

第六章 漫画の「世界観」とは何か

第七章 すべての要素は「テーマ」につながる

実践編その1 漫画ができるまで――アイディア、ネーム、コマ割りの方法

実践編その2 短編の描き方――「富豪村」(『岸辺露伴は動かない』)を例に

おわりに

 

 

 

 

 目次を見てもお分かりのとおり、荒木飛呂彦という漫画家は努力の人であり、作戦の人であり、論理の人であるなあと思う。

 彼の生み出したキャラクター「岸辺露伴」のイメージが強烈なので、なんとなく、作者もあんな感じの超天才肌なのかな、と思ってしまうのだけれども、一六歳の頃、「同い年のゆでたまご先生が『キン肉マン』でデビューし」て強い衝撃を受け、漫画を投稿するようになるものの、はじめのうちはぼつ続きだったそうです。

 

「絵柄は、大好きだった横山光輝先生の『バビル2世』の真似みたいでしたし、そもそも絵自体が下手でした」

 (第1章 導入の描き方 原稿を見もせず袋に戻す編集者)

 

と、ご自身でもおっしゃっている。今でこそ、異色の漫画家、天才肌、波紋使ってるんじゃないか、スタンドがいるに違いない――などと主にネット上などで鬼才扱いを恣にされていますが、決してそうではなかった。

 

 

 確かに連載デビュー作の「魔少年ビーティー」にはこのころの面影が少し慮れる。横山光輝テイストから抜けきれてない。それでもどこかに『ジョジョの奇妙な冒険』の面影はある。後に大成する幼児の、つるんとしながらどこか引っかかる面影のように、それはふとした表情とか、目つきとかに漂っている。

 おそらく数多の「読まれずに袋にしまわれた」兄原稿たちの屍を超え、『武装ポーカー』で手塚治虫賞を獲得したのは二十歳のころだったそうです。この作品はあの嫉妬深い手塚治虫に「これはすごく面白かった。近来にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」と言わしめたといいますが、デビュー後も荒木は「編集部に作品を持っていったとき、受け取った編集者が(中略)また袋に戻してしまう」ことを恐れ、最初の1ページをいかに描くかに苦心惨憺している。「どんなものが魅力的か、分析」する。

 

荒木飛呂彦 : 手塚治虫が褒めたことがある漫画家一覧 - NAVER まとめ

 

 本の中でも「最初の1ページをどう描くか」だけで6項もたてて言葉を尽くしている。

 思えば岸辺露伴も、天才でありながら相当な努力の人でもある。露伴は確かに荒木の分身であり、おそらく理想なんだろうなと思う。ヒロイズムについては第三章にも言及があり、荒木はそれは「孤独」だ、と書いています。己で考え、己で力を尽くす。人に頼らず、才に奢らず。うーん、かっこいい。

 

 そう。今や「鬼才」となった荒木飛呂彦もまた、デビュー後しばらくは編集者にズケズケと意見を言われていたみたいです。さなざまな局面で、厳しく指摘をされ続けても荒木が心を折らなかったのは、「明確な目標」という根幹がしっかりしていたから。それを形作ったのがアルフレッド・ヒチコックの『映画術』だというから感慨深い。ヒチコックを常に心のどこかに寄り添わせ、ヒチコックに支えられながら知恵を絞り、努力を惜しまずに頭角を表していった。

 彼の描く「スタンド」のように。 

 

 『ジョジョ』といえば数々の名言に彩られた作品ですが、荒木飛呂彦自身が名言の宝庫でもある。

 これも単に素敵な名言だけでもかなり満載の本なので、ほんとに読むといいと思います。ああ、いろいろ抜き出したい。けど…、やめとく! あとは、君が自分で読むと良い。

 

彼は砂の上を歩いてくる、海上を渡る神のように

サン=テグジュペリ『人間の土地』感想です。

 

 毎年新潮社は「新潮社 夏の100冊」というフェアをやって、別に本一冊ずつはお値段据え置きなんだけれども、まあマークを集めてささやかなプレゼントが貰えたりするのは、本屋通いが好きな方ならだれしもご存知でしょう。きいろい表紙の小冊子がついていて、一時期マスコットはパンダだった。いまはへんてこなロボに変わったらしい。

「YONDA?」ってのはなかなか押し付けがましいけれども、でも毎回名作揃いでありがたい、ある年には読破してやろうと夏じゅうせっせと文庫を買い集めては、読了したら小冊子に銀のシールを貼ったりしてましたが、あんがい読めないものです、7・8月トータルでせいぜい頑張ったところで20冊くらい。おさいふもそれぐらいになると2万円くらい掛かっており、そのくせ本は文庫ばかりが増えるので、やめてしまいました。しばらくやめていたけど、今年は「さてはて、何がラインナップされているかのう 一冊ぐらいかってみるか」といったゆるい感じで手を出してみた。

 

 サン・テグジュペリにはすこしばかり因縁と、思い入れがある。

 ひょうきんで三枚目なキャラクターで、いまでも時折、まるで幼児みたいな私の父が、母とのお見合いデートの時に、「どんな本を読みますの?」という質問の答えとして、「サン=テグジュペリなどを愛読します」と答えたとか、答えないとかいうのである。『星の王子さま』しか知らなかった頃はなんて口説き文句だずるい! なんて思っていたけど、我が父は航空関係のエンジニアで、そういう視点でならまあ、分からなくもない。ヒコーキ乗りの話のほうだな。

 

星の王子さま』では主人公は、サハラ砂漠での散々な不時着のあと、一人のすてきな少年と出会うけれども、この「人間の土地」のクライマックスは名も知れぬ、「あらゆる人間の顔」をしたリビア人が現れる。とにかくこの本、いろいろ素敵なエピソード満載なんだけど、「砂漠のまん中で」で描かれる、読んでるこっちもカラカラになりそうな、不時着先の砂漠での数日間の描写が秀逸なのだ。

「人間を、十九時間で、干物にしてしまう西風が吹いている。ぼくの食道は、まだしめきられてはいないが、こわばって痛い。何か掻きむしるようなものが、もうそこには感じられる。やがて話に聞いている、あの咳が始まるはずだ。ぼくは待っている。(中略)この斑点が、炎に変る時が、いよいよぼくの倒れる時だ。」

 オアシスに期待しては裏切られたり、幻聴や幻覚を聞いたりしながら、砂漠の上をふらふらと彷徨う、主人公テグジュペリとプレヴォーの姿が哀れすぎる。この本が残っているんだから助かってるんだろうなおい…!? と途中でやきもきする。助けに巡りあい、水を飲む二人の描写もすさまじい。水を数行にわたって神格化してる。

 こういう冒険を経験した人間として、「人間の本然とは」ということを作者は考える、「虐殺されたモーツァルト」に心なやませる。冒険や、死ぬほどの苦労は確かに人間のある才能を開花させるに違いないし、そのときからおそらく人は、いままでとは全く違う、縦にも横にも広い世界のなかに放り出されるのだろう、が…。

 ちぇ、冒険野郎め、君子は危うきに近寄らずに、その境地に到達したいと思うんだけれども、それじゃやっぱり、甘いのかな。

マッドマックス 怒りのデスロードの世紀末描写について思いを馳せる

見てきました。

 

邦題のハデハデ感に対して、原題は「Fury Road」とわりかしそっけないようですが、意味は「激怒の道」とかそんな感じですかね。80年台の日本の漫画っぽくて、ぴったりの邦題だと思う。

 

日本人にとっての「核戦争以降」といえば『北斗の拳』とか『アキラ』あたりのイメージなのでしょうが、アメリカ人は割りと水・石油・食べ物に対してシビアな視線を持っています。最近私が触れたそういう終末を描く作品だとたとえば『第六ポンプ』的な世界観、石油だろうが架空の第三の燃料だろうが、あるいは人力だろうが、人は常にそういうものに悩まされ、縛られている。大量生産・大量消費の旗手たるアメリカのこれもまたひとつの神話みたいなもんなのでしょうか。そのくせガソリンの引火性とかちょっとあまく見積もり過ぎなような気がしなくもないし、いったいどれだけ時間がたったのか知りませんが、核以降の不毛さはなんか違うような感じもする。人々が異形になってしまうのがひとえに核のせい、というのもへんな気もするし、どっちかというともっと複合的な汚染によるんじゃないかななんて思ったりもする。細菌とか。

 

本筋のストーリーはあくまで氷山の一角で、むしろ映画ではかけらも語られてない沈んでるところ含めて作品なのだ、崇め奉れ! というマニアックなつくりが最近のハリウッドの流行なんでしょうかね? そういう姿勢は個人的にはいけすかねーなー、と思うのですが、オタクはオタクの心を知る、とでもいうのは、オタク受けは日本でも良いようです。なんか、公開前にいくつもコミックが発売され、登場人物たちのサイドストーリーが語られた上での上映だったようなんですよね。えーアメリカンずるい そんな面白そうな供給があったのかよ! ってなる。そんなことされちゃ知りたいじゃんか。

 

「びっくりするほど中身が無い」「全編にわたってどんぱちとカーチェイス」ってのはあくまで「本編」の話で、映像内にちらちら仕組まれてる役者のメイクから動き、服装、名前の裏の意味、脚本には反映されてない裏ストーリー…が作りこまれているからそういう事情が分からなくてもなんとなく収まりの悪い、クラクラめまいがするような後味で、「もう一回見たら解るかも!?」なんて思わせぶりになるのでしょう。

 でも、役者さんが「シナリオの外の膨大な物語を了解している」とか「アイテムの一つ一つにまで世界や歴史が詰め込まれている」ってすごく素敵なことで、そういうのがあるのとないのとじゃ、やっぱり見た時の感動は違うもんです。違うもんなんですよ。バックグラウンド大事。

 

あ、これなんかに似てるわ、と思ったら『パシフィック・リム』っぽいんだよね。

 

はるか未来の、荒廃した我らの子孫が、かつての輝かしい文化を尊重し、神格化しながら、野蛮な生を生きているーーそういう文脈は大衆的に消費されがちだけど、そこについてはアホらしい、ってのと、なんか切ない、ってのが同居しています。なんか「現代至上主義」っぽいおごりだな、とシニカルにもなるし、子孫たちのことを思って奇妙なノスタルジーに包まれたりもするんだよね。客体としてみるか、もっとずっぷり、主観を重ねて見るか、の違いだけだけれども。

 

読了本めも:『リリエンタールの末裔』

上田先生がキンドル版だめって言うはずない! って

 

上田早夕里のSFの根本的なところに、「人類の科学技術に対する敬意と愛着」がありますよね。

たとえ不気味な「ルーシー」になっても、第2の脳を宇宙の遥か彼方に飛ばす羽目になっても、それによって滅亡が待っていても、人類が自然に対して果敢に挑戦していくこと自体をいとおしんでいる、というか。

「華竜の宮」後の短篇集ということで、そういう観点はこの本にも随所に見られます。自然や過酷な状況に立ち向かうために投薬を続けた末に背中から変な腕が生えちゃった民族とか、科学技術との融合の末に非凡な感覚を手に入れてしまった男とか、そういう人を肯定的な目で捉えて描いているところが、いい。

 人類の科学技術に対する安易なペシミズムがなく、それでいてその行く末を見つめる目は冷静、史実とファンタジーをさり気なく融合し、短編でも惜しげなく魅力的なキャラクターを投下してゆく、なんていう、なんて真摯な語り手なんでしょう。

 大人のSFってこういうことだよな、と思った次第。

 

読了本めも:塚本靑史『白起』

『白起』読み終わりました。

「白起」っていうタイトルだけだと、いったいなんのことだかわからない人もいるかも知れません。人の名前です。

 最近テレビで「キングダム芸人」とかいう企画? があったそうで、それを見て、あの作品を読んだ人なら、あるいはわかってくれるかもしれない。

 

画像検索結果貼っておきます。違う人も混じっていますが、まあ読んでみてください。

キングダム 白起 - Google 検索

キングダムの白起は冷酷無比、化け物じみてて不気味、という感じですが、一方でこうなっちゃうの? というのが王欣太の『達人伝』の白起。

seiga.nicovideo.jp

こうなる。恐ろしき色男。達人伝は恐ろしい人ほどきれいな顔をしている法則でもあるのか、あと呂不韋が美男子です。個人的には、『蒼天航路』時代の個性的なおもしろフェイス揃いの登場人物のほうが好みなんだけどなあ。

 閑話休題

 

 じゃ塚本靑史は白起をどう書いたか? というと、ごく普通の男性として書きました。美しい女官に密かに恋をして、それを後生大事に古希の齢まで引きずる。それをずばり指摘されると赤面してあわてるという可愛いところもあるし、中国古代の女神・女禍が、上等な人間を粘土から、下等な人間を泥から作った、というお話をお母さんから聞かされればそれを生涯の根本思想にしてしまうような、わりかし愛すべき、単純な一般男性です。少なくとも気は違っていない。

 ところが、その気が違っていない一般男性をして、どうして「大量殺戮将軍」となったのか。他にも戦国時代には綺羅星たる人材がひしめいているわけですから、何も主人公は白起でなくてもいいわけです。実際別の作家は「呂不韋」ってのや「楽毅」ってのを書いていたりします。だいたいこの辺りの人々と同時代の彼、白起。なぜ彼を主人公にしたのか。

入れ替わり立ち代わり登場する登場人物の嵐に持ちこたえ、ちょっとした一言でひっくり返るような外交情勢などを我慢して読み進めていくと、なんとなくじわじわ、その辺りがわかってくるような気がするのが、この作品のすごいところです。

はじめのころの白起のしごとのモチベーションは、ひとえに魏冉という貴人に見出され、彼に目をかけられ、子飼いとなったことにあります。魏冉の命令なら割に無批判に聞き従うのが、中盤ごごろまでの白起。自分が使った偵察隊が必死で知らせてくれた秘密まで握り潰して、実に忠実に魏冉に仕えます。腐女子脳がぴりっと刺激されましたが、まあそういう湿っぽい妄想の余地は極限まで削ってあるのでここは深く立ち入らずに去りましょう。

 じゃ、一般男子・白起は、上からの命令に逆らわずに、現場担当者として淡々と40万人を生き埋めにしたのか? というとその辺りはちょっと違います。この空前絶後の大虐殺は、人間個人が殺した数としては、人類史上にも類を見ない、というギネスクラスの大虐殺ですが、彼をそこに駆り立てた問題は案外とどーしょーもないことです。

 ただ、多分彼自身は、それに気づいてはいない。

 国際情勢や縦横家の画策、さらには王たちの欲望やらなにやらかにやら、いろんな要素が複合的に絡みついた末の「長平の戦い」なのです。後世の、その場に身を置かない、机上でのんびり妄想しているような人間がとやかくいう筋合いはない、塚本白起はそう叫んでいるようです。確かに信賞必罰を重んじる秦という国で、かれが将軍であればこその驚天動地なのでしょう。でも、彼自身は居たって普通の、常人の感覚でその「悪行」を成し遂げたのだ、…と、いう視点に立って、塚本靑史は書いています。

 かの悪行を白起個人の責任に期す、というような短絡はここにはない。現代的な視点に立った糾弾とは程遠く、あくまで普通の人間として描かれていることに奇妙な安堵感を覚えずにはいられません。誰かを悪者にしてスケープゴートにすることは易しいですが、そういうふうに選ばれたスケープゴートの心の中に踏み込んでいくのは、ひどくむつかしい。そんな難事業に果敢に挑んだ作品です。

だんだん当たり前の生活になってゆく

普通の人ならしていることを、今までしてなかった。

何が弊害になってたかというとほとんどスマホである。

家に帰ったらトイレの掃除をするとか。

ご飯食べたあとは食器洗うとか。

帰りの電車で本を読むとか。

スマホをすこし遠ざけたら、10年ほど前は当たり前にやってたことがだんだんできるようになってきた。

スマホは怖いね。